3.仲間の面影
「鏡の反応はこっちか?」
「――ええ」
向かうべき道はただ一つ。
そこからだけ、混沌の気配は漂わない。まるで幽霊がアマリリスを呼びこんでいるかのように、すっきりとした匂いのみが流れてくる。
あんなにも気配を顕わにしていた混沌達の気配が嘘だったかのように、私たちの行く手には何者も現れなかった。
リンが言うにはすぐそこだったはずだが、まだ幽霊らしきものすら現れない。
ただし、混沌が現れる前から聞こえてきていた細波のような音だけは常に聞こえていた。泣いているとアマリリスは言っていただろうか。その通り、泣いているらしい。聞き覚えのある声で、泣きながら何かを囁いているらしい。
「プシュケの声だわ……」
悲鳴染みた声でアマリリスは言う。
我々の目の前でグリフォスに奪われてしまった巫女。その麗しい姿を私も覚えている。人間でありながら、あまりの神聖さに感動すら覚える少女。柔らかそうな肉体に艶やかな肌という特徴だけならば抱くはずの食欲も、全く過ぎりもしなかった。
そんな神聖な少女の末路を私は覚えている。
他の二人と同じ。目撃していながら、私はいずれも救えなかった。
「――違う。あれは、お前の知っている海巫女ではない」
眉間にしわが寄る。
プシュケと言う名の者は死んだのだ。グリフォスに触れられて、巫女として一番大事な部分を奪われてしまった。血肉は奪われ、魂のみが残り粕として亡霊に成り果てた。
神獣の力はゲネシスに、そして神獣を操る力はグリフォスに。
その陰謀を前に、プシュケという少女の人生は幕を閉じた。
「お前の事はきっと忘れているだろう。そうでなければ、竜族共がプシュケの亡霊ではなくマルの亡霊と言うだろうか」
「でも、プシュケだわ。あの声はまさに――」
確かに声は似ているが、その姿はどうだろう。
死んで亡霊となってしまえば、その姿は生きていた頃のようにはならない。無邪気で純粋な心しかなかったとすれば、妖精のように愛らしい姿かもしれないが、あのような末路を辿って混乱している今の彼女はきっと、身の毛もよだつような姿でいるだろう。
どうあったってプシュケは戻らない。
アマリリスが鏡を使えば、その霊魂は導かれて、新たな少女として生まれ変わるべき時を待つのだから。
「お前の知っている海巫女は死んだんだ。グリフォスに力を奪われ、更には愛する存在まで奪われて混乱している」
「――プシュケ……」
寂しげにその名を呟く姿は、かつて人狼に恐れられていた魔女とは思えないほど儚い。
「いいえ、そうね。あれはマルなのよね」
力なくそう言うと、アマリリスは鏡を抱きしめた。
役目の失敗、僕の死、仲間との別れ、あらゆる重圧が大して強くもないこの魔女に圧し掛かっているのが良く分かる。
少し前までの私ならば、嘲笑っていただろう。
この女はクロを殺したのだ。それだけでどん底まで落ち込んだとしても、いい気味としか思えなかっただろう。
だが、私は変わってしまった。
ゲネシスと深く関わり、その凶行を阻めなかったせいなのだろうか。私はどうしてもこの夫殺しの犯人を憎み切れなかった。
クロが死者の国より私を見ていたとすれば、きっと愛想を尽かすだろう。
「ねえ、カリス。どうして悪魔は此処までして世界を手中に収めたいのかしら」
「雑談している暇があったら進むぞ。マルの亡霊さえ癒せば混沌は消える。リンたちをいつまでも戦わせたくはないだろう?」
「――ええ、そうね……」
力なく同意し、アマリリスは口を閉ざす。
その手の話に興味がないわけでもない。
何故、悪魔が死霊を捕まえてまで世界を陥れたいのか。自分の好きなようにしたいだけならば、何も世界を支配する事はない。神々への報復でもしたいのか、ただ単にそうやって世界を陥れることで悦に浸っているだけなのか。
それとも、古の神話の通り、悪神――人間たちが魔王とか呼ぶ存在の指示に従っているだけなのか……。
理由が何にあるにせよ、このまま野放しにしておくわけにはいかない。
魔物にとっても、魔族にとっても、そして人間にとっても同じだ。
「初めてプシュケに会った時、どうして私なのかと戸惑ったわ」
歩みながらアマリリスが再び口を開いた。
「私は別に強いわけじゃない。ヒレンを失った時、自分の弱さを恐ろしいくらいに思い知らされたもの」
それでも、我々にとってこの魔女は脅威でしかなかった。
「もっと赤い花が大勢いたら、きっと私は候補にも挙がらなかったのだろうって思った。でも、そう言っていられる場合でもなかったから、引き受けたにすぎないの」
そのお陰で私はとばっちりだ。
夫の仇打ちの機会も失ってしまったのだから。
「あなたとこうして協力しながら行動を共にする日が来るなんて思いもしなかった。魔女の性に支配されていた時はあんなにも殺したかったのに、今じゃその感覚すら思い出せない。あなたの夫を殺してしまった事すら恐ろしいくらいよ」
だから、私は今、仇を討つ相手すら奪われてしまったのだ。
今のアマリリスを殺したところで、クロの仇打ちにはならない。
「最初から性なんてなかったら、どんなによかっただろう」
虚言でもなく、本心から言っているらしい。
魔女の性というものは、人間どもにとって都合のいい神話では唯一の神に逆らった罪の証だとされていた。
だが、我ら人狼の間には違う話が伝わっている。恐らく、当の魔女たちもそちらの方を信じていることだろう。
大いなる魔力を得るために与えられた封印。
どんな生き物だって、代償なくして力は得られない。それは、罪などではなく、当然の事。人間だって例外ではないし、人狼だってそうだ。それだけのこと。その犠牲になる者は運が悪いだけ。私も、そしてクロも。
「くだらん戯言は終わりだ、行くぞ」
同情なんてするつもりはない。
この女だって、運が悪かったに過ぎないのだから。