2.悪魔というもの
神獣を滅ぼしてその力を独占しようとする悪魔。
その存在は不確かながらも、リヴァイアサンの子孫である竜族の伝承に度々出てきていたらしい。きっとベヒモスの子孫やジズの子孫も同じだろう。
悪魔は実体を持たず、死霊を操ってこの世に現れる。
そして死人の口を借りて生きている人間を唆し、力を与えて自分の代わりに神殺しという大きな罪を犯させる。
悪魔が欲するのは神獣の守る巫女の血肉。
巫女と神獣は対であり、二つで一つ。その全てを支配する事で、悪魔はこの世の中を手中に収めようとしているのだと言われているらしい。
悪魔に攻め込まれ、神と巫女を失ってしまった大社には巫女の亡霊が残り、巫女の亡霊の涙は数々の混沌を生みだす。
混沌は魔物のようなものらしい。
だが、常に悪意を他者に向けるという部分に置いては、魔物とは全くの別物だ。
魔物には魔物のルールがあり、そのルールを綺麗に守る以上、悪意を他者に向ける事はない。たとえ相手が人間だとしても、魔物のルールを守るような者ならば誰だって悪意を向けるのを躊躇うものだ。
躊躇わない者がいたとしても、それはもはや異常者に過ぎない。
巫女の亡霊がもたらす混沌とは、そんな異常者どもであるらしい。だが、具体的にそれが何なのかを語れる者はこの世に殆ど居ないだろう。
リンたちだって同じ。
竜族であっても、以前、この場所が悪魔によって攻め込まれてしまった状況を知るような者は何処にもいない。
それこそリヴァイアサンしか語れないだろう。
しかし、そのリヴァイアサンはゲネシスによってバラバラにされてしまった。
復活させるには、まず巫女の亡霊を慰めなくてはならない。混沌をばらまき、大社の中を穢しているというマルの亡霊を鏡で癒し、そして、全ての巫女の魂を慰めた上で、罪人であるゲネシスに罰を与えなくてはならないのだ。
――……ゲネシス。
彼は今頃、どうしているのだろう。
せめて私が人間であったならば、少しは耳を傾けてくれたのだろうか。その可能性すら分からない今、彼に関しての想いは全て虚しい印象しか残っていない。
どうして悪魔は、あのグリフォスとか名乗る悪魔は、よりによってゲネシスの最愛の人の死霊を捕まえ、その姿でゲネシスを唆したのだろう。
何もかも運が悪かったせいだと言われればそれまでだ。
サファイアが人狼に襲われて殺された事も、ゲネシスが魔女狩りの剣士になってしまったことも、最後の仕事で恐ろしい魔女の大切な存在を壊してしまった事も、その恐ろしい魔女の性によってミールが奪われてしまった事も、全て運が悪かったと言われればそれまでなのだろう。
今なお孤独なゲネシスの罪とは何なのだろう。
死人に耳を貸してしまった事だろうか。愛する人の姿で現れた悪魔の手を握り返してしまったことだろうか。
何であれ、私もまた少しずつ彼を追い詰めなくてはならない。
それが、罪を犯す前に止められなかった私への罰。
「静か過ぎますね」
異様な臭気ただよう社の中で、リンが控えめにそう言った。
既に社の内部まで入りこんでいる。一般人にも公開されていた大広間などとっくに過ぎ去り、海巫女とリヴァイアサンのこれからの蜜月の時間を守るはずだった扉の向こうにまで至っている。
竜族達に伝わる話が確かならば、我々の気配を察してマルの混乱より生み落とされた混沌とやらが襲いかかってきてもいい頃だ。
だが、何者が来る気配もない。
「おい、お前達は何度も此処に侵入したんだろう?」
そっと同胞を窺い、私は訊ねてみた。
「この場所に魔物のような怪物はいたのか?」
「ああ、前はそこら中うろついていたよ」
人狼の一人がすぐさま答える。
「隠れているんじゃないかしら? それか、竜族の御方達を警戒しているのか」
ややからかう様子で仲間の一人の女人狼が言う。
態度はともかく、節操もない怪物だとしても、確かに竜族のような圧倒的な力を秘める魔族には警戒しても仕方するものなのかもしれない。そもそも、彼らはリヴァイアサンの血を引く者たちだ。いかに混乱に囚われているとしても、マルだって最愛の人の匂いを忘れはしないだろうという思いも過ぎる。
だが、進むにつれて雰囲気は変わっていった。
何処となく誰かに見られているような緊張感が強まっていくのだ。
そして、社の外で常に揺れ動く細波を思わせる奇妙な物音が微かに聞こえ始めてきた。細波だとしても、外からの音ではない。複雑に入り組み、広大なこの社の中で外の音が聞こえてくると言う事は殆どないだろう。
では、何の音なのか。
問うまでもなく、人狼たちの先導で進んでいくにつれ、物音は段々はっきりとしてきた。
「泣いている?」
アマリリスがぽつりと呟いた。
そのふとした視線の先で、人狼たちがふと周囲を警戒し始めた。
竜族というものは力こそあるが、嗅覚においては人狼の方が優れているらしい。私の鼻にも異変は感じ取れたが、リンを始めとする竜族達はそんな我々の様子を怪訝そうに窺っただけだった。
「どうしました?」
不安げに訊ねるリンに、人狼たちは答えることなく各々が一点を警戒し始める。
場所は何本もの柱が支える広間。幾らかの部屋へと繋がる中規模の分かれ道。そのあらゆる通路に繋がる出入り口を私の同胞達は見つめていた。
方向はばらばらだ。
その雰囲気に、何の臭いだか分からない私にも状況は察せた。
「来るぞ。奴らだ」
彼らの頭が低い声で警戒する。
変化する力こそ失っていても、その嗅覚だけは健在のようだ。
やっと竜族たちにも理解出来たらしく、それぞれが人間どころか人狼にすら扱えないだろう巨大な武器を構え始めた。
リンがさり気なくアマリリスと私に言う。
「あなた方は先に行ってください……」
「でも――」
「心配せずともマルの気配はすぐそこです。混沌がここに集まっている隙に早く――」
言い終わらぬうちに、接近してくる者どもの声が聞こえ始めた。
なるほど、魔物と称されるだけあって、その声は世界のあちこちに住む思慮の足らない下等な魔物たちにそっくりだった。
臭いから察するに、トカゲや蛇といったところだろう。
数も多く、もしも行く手を遮られればかなり面倒な事になるだろう。
「巫女の鏡があなたを導くはずです。どうか先へ――」
リンの必死な様子に、私はアマリリスの腕を掴んだ。
「行くぞ、赤い花」
こいつの判断を待っていたら日が暮れてしまう。
無理矢理引っ張って進みだすさながら、ふと振り返ってみれば、戸惑いながら皆を見つめるアマリリスの横顔と、安心したように私達を送り出すリンの顔が同時に見えた。
恐らく混沌というものは倒しても湧いて出てくるだろう。
しかし、こちらも竜族と人狼。そう簡単に殺されるようなものではない。そう思う事にしたのだろう、アマリリスの方も戸惑いから醒め、私が引っ張らずともしっかりとした足取りで進み始めた。
あとはマルを探すだけだ。
鏡の示す通路へと入りこむ中、背後よりリンたちの怒声が聞こえ始めるのを聞き流しながら、私たちはただ前を目指した。