6.憂鬱な魔女
アマリリスの元へと戻ったのは、ニフが寝付くのを見届けてからのことだった。
夕餉からだいぶ経っているというのに、彼女は食事にすら手をつけていない。前よりも痩せてきた気がする。けれど、私が影の中に忍びこむと、真っ直ぐその視線をこちらに向けた。
緊張を顕わにしたりはせず、彼女はすぐさま自分に出された料理の皿をこちらに見せた。
「食べる?」
短い声を投げかけられ、私は観念して影から這い出した。
「いらん」
食事は足りている。
リンの生家に潜り込んでから、目立った狩りはしていない。必要がなかった。というのも、健気な竜族や海巫女と縁のある人間達が、人狼であるはずの私にまで肉を捧げてくれるからだ。もちろん、余りものではあるが、そんな事はどうでもいい。
人間の肉を食わない生活は退屈なものだ。
衣食住に満ち足りているはずの人狼が不必要な狩りを好む理由は、命を奪われる獲物が身も心も自分に屈服するその瞬間が楽しいからだ。
怯えた目と震える体。柔らかな肉体を貪る際に聞こえてくる悲鳴。もがいて逃げようとする身体を抑えつけるのは、ケダモノとしてこの上なく楽しい。痛がるその表情が堪らなくて命を奪うまでにたっぷりと時間をかけた事もある。特に強気の人間が屈服する姿を見る事は快感だった。
でも、そんな狩りも長くしていない。
リンの家に居る以上、する気にもならなかった。私は、甲斐甲斐しく世話をしてくれるような巫女の血縁を捕まえて食べるような狂犬ではない。私が捕まえて食べるのは、私の事を心の底から拒絶するような可愛らしい獲物だけだ。
そんな獲物を最後に自分のものにしてから、どのくらい経っているだろう。
あれだけ自分に纏わりついていた生き血の臭気や死の穢れも、すっかり薄れてしまった。
「お前の飯だろう。お前が喰わなくてどうする」
他意も無くそう言うと、アマリリスは力なく微笑んだ。
「入らないの。食べたくない」
「喰え。それはお前の餌だ。巫女を救う前に貧血で倒れるようなことがあったら、古より受け継いだ《赤い花》の心臓が泣くぞ」
「私が使い物にならなくなったとしても、次の《赤い花》はきっとこの地にやってくるでしょうね」
「無責任な奴だ。墓下のルーナがなんて思うか」
ルーナの名前を出すと、アマリリスの表情に陰りが生まれた。
僕を失った魔女の悲しみを和らげる方法があるのなら教えてほしい。
今のアマリリスの状態が、絆のせいなのかどうかなんて私には分からないけれど、時間のない今の状況で喪失感に暮れる他人を奮い立たせるような無慈悲な力が、どうしても私は欲しかった。
「ルーナは寂しくないかしら。向こうで、泣いてないかしら」
「寂しくないように、ニフテリザに鎮魂を約束させた。彼女が毎日墓前に顔を見せてやるならば、あの騒々しい魔物の魂も少しは慰められるだろうよ」
私の答えに、アマリリスはしばし黙した。
その目が揺らぎ、手に持っていた夕餉の皿が再び机に置かれた。
「そう……」
アマリリスがニフと二人きりで会話していたのは、私がリンの元へと忍びこんでいた頃の事だった。
その時に彼女達がどんなやり取りをしていたかなんて、私には知る術もない。ニフはニフで特に何も語らなかったし、アマリリスも黙したまま、じっと思案に耽るばかりだ。
だが、この様子を見れば、だいたい穏便でなかったのだろうという事は分かった。
もしくは、アマリリス自身が寂しがっているとでも言うのだろうか。
魔女のくせに。
「カリス」
ふと、アマリリスが私の名を呟いた。
友でも呼ぶかのようなその声に、嫌悪と同時に何故だか懐かしいような感覚を抱き、唸り声で誤魔化した。
この女は夫の仇。それを忘れてはいけない。
「あなたも、ついて来ない方がいいかもしれない」
忌々しいほどの慈しみを含んだ声で、アマリリスはそう言った。
不快な気持ちを顕わに、私はその端麗な姿を無言で睨みつけた。だが、アマリリスはその意見を曲げようともしない。
何故、と聞くまでも無く、アマリリスは続けて言った。
「私はあなたの恋した人の命を奪う。それだけじゃなく、その責任から逃れれば、間違いなく、今までの私に戻るはず。それがどういうことか、あなたにも分かるでしょう?」
「ああ、だが、その前にお前を喰えばいいのだろう?」
平然とそう言ってやったが、アマリリスからの視線は分かりやすいほどに半信半疑という言葉の似合うものだった。
「あなた、本当に私を殺すつもりでいるのかしら」
「死にたくない、という意味だったら期待するな。そのつもりだ」
「口ではそう言っておいて、本当は私に殺されるつもりじゃないかと疑っているのよ」
鼻で笑ってやった。
随分と呑気な心配をしているものだ。淡い生への期待をそんな形で抱いているだけではないだろうかと思うと笑えてくる。
だが、すぐに虚しくなった。
先の事があまり具体的に考えられない。アマリリスの言う通り、私は口先だけの女に過ぎない。それもこれも、人狼という生き物自体が同胞でない者に対してはそう振る舞うべきだと言い聞かされて育つからだと認識している。
じゃあ、私は口先だけでアマリリスを殺すと宣言しているのだろうか。
血と肉に飢えた時の感情をわざわざ想起してから、私はアマリリスの姿を眺めてみた。大人しく寝台に腰かけ、薄暗い部屋の中で儚げな雰囲気すら漂わす彼女。魔女の肉はそもそも美味しそうだとは思わない。
だからだろうか。
いかに夫の仇だと自分に言い聞かせても、彼女を喰い殺す未来の事が、今となってもなかなか想像出来ない。いかに想像力を働かせても、私のせいでこの女の口から悲鳴があがる様子が思い浮かばない。
「ともかく、私について来てもいい事はないわ」
「本当に馬鹿な奴だな。別にいい事があるからついて行くわけじゃない。全てが終わった後、クロの仇を取るためについて行くだけだ。それまではまっとうな生き物として、神獣に味方するだけの事。勝手な妄想で偉そうに忠告するのは止めろ」
きっぱりと言ってやっても、アマリリスはあまり真面目に受け取らなかったようだった。
代わりに彼女は、何もないただの壁を見つめたままで、全身から力を抜くように溜め息を漏らしただけだった。
不満だとか、予想外だとか、そういう溜め息ではなさそうだ。
きっと聞かずとも、私の答え、私の言うだろう事は、想像済みだったのだろう。
外ではすっかり日も落ちていた。暗くなってきた部屋の中央で、私は胡坐をかいてアマリリスの横顔をしばし見つめた。