5.未来への不安
ニフはまだ言葉を探している。
もしくは、自分の気持ちを正確に捉えるのも難しいのかもしれない。
私は静かに待った。待つのは得意だ。人狼の狩りなんてものは待つことが重要なのだから。これは狩りなんかではないけれど、それでも、同じ事だ。
「カリス……」
やがて、月がやや傾いた頃、ニフはようやく親しい友の名を口ずさむように、人狼である私の名前を呟いた。
「あなたは全てが終わったら、アマリリスを殺してしまうのでしょう?」
精霊のような双眸がこちらを向いている。
何処までも真っ直ぐなその視線を平然と受け止め、偽りの笑みを作ることなんて簡単な事のはずだった。
そうやって私は沢山の人間を喰ってきたのだ。
男であれ、女であれ、心を開かせ、こちらも心を開いたと見せかけた上で喰い殺す。裏切られた心の痛みと、騙された心の苦しみ、それらが身体の痛みと折り重なって、狂おしいほどの悲鳴をもたらすその光景を、私は何度も何度も味わい、疑いもなく繰り返し、わが身に捧げられし糧としてのみその存在に感謝したものだった。
おぞましい。そんな過去の自分が。
何故、そう思うのだろう。分からない。私は人狼であるはずなのに。
分からないまま、私は表情を殺し、ニフに答えた。
「そうだよ」
自分のものであると意識しなければ気付かないほど、何処までも淡々とした声だった。
「全てが終わったら、帰って来るのは私かアマリリスのどちらか一方だろう。断罪が終われば、アマリリスは魔女に戻る。それはつまり、あの女が私の事を欲の捌け口にしか見えなくなるということだからね」
感情は恐ろしいほどに伴わない。
そんな私の姿を、ニフはじっと見つめている。彼女の表情が浮かべているのはどんな感情だろうか。気になる所だったが、純粋そうなその目を直に見てしまうのは、とても恐ろしいことに思え、私はニフに背を向け、そのまま座り込んだ。
寝台の上で座りニフと、その寝台に寄りかかりながら床に座る私。
いつかの夜もこんな状況で二人きりでいた。
変なものだ。
美味しそうな身体を持つ人間の女であるはずなのに、どうしても私はニフを殺して食べようだなんて思う事が出来なかった。
情が移ったのだろう。
他の人狼にはきっと理解出来ない感覚だろう。
「カリス――」
縋るような声が背後より聞こえ、思わず振り返りそうになった。
まるで、今になって私の立場を知ったかのよう。面倒臭い。かなり昔に彼女の事を純粋だと言っていた人食い鬼どもの話し声が甦る。
純粋。確かにそうかもしれない。
だが、純粋というものは、純粋でない者にとって時に恐ろしいものだ。その事実を身体に刻まれているかのようだった。
「ねえ、カリス。役目が終わっても、戦わないで」
愚かにもニフはそう言った。
視線を逸らさずに、私は苦く笑って見せた。
「それは私に死ねと言っているのか? アマリリスの汚らしい欲望を満たす生贄となれと、そう言っているのかい、お嬢さん?」
「違う、そうじゃなくて……そうじゃなくて――」
必死に否定する声は可愛らしいくらいだ。
無駄にからかいたくなるのは、人狼として持って生まれた意地の悪さのせいだろう。苦しんで悲鳴を上げる弱き獣を見て、興奮を覚え、更に責めるようでなければ人狼として生き延びる事は出来ないのだから。
だが、あまりにその遊びに身を投じるのも賢いとは言えない。
私は溜め息をつき、短く訂正した。
「冗談だよ、ニフ」
振り返り、中身のない笑みを向けたところでニフは納得しない。それもそうだろう。美味そうな肉の詰まった身体の中で抱えている不安は、いちいち言葉にせずとも、私にも伝わってくるような気がした。
彼女は恐れている。
独りにされる事を恐がっている。
振り返らずに寝台に更に体重をかけてみると、衣擦れの音が聞こえてきた。ニフの動作、吐息、温もり。そのどれもが私の食指を動かすには足りない。
「カリス。あなたが人間を騙して食べる人狼だとしても、昔、私を助けてくれた事実は変わらない。アマリリスを助けてくれた事だって」
「……別にお前達の為じゃないよ」
まっとうな生き物としての責任を果たしただけの事。
そう反論した所で、この女は主張を変えないだろうということもわかった。
「私は……カリス……私は、あなたにも戻ってきてもらいたい」
愚かなものだ。
もう騙したり、襲ったりしないと確かに言ったけれど、その言葉を真に受けてこんな希望を口に出して言うのだから。
純粋。これを純粋というのか。
ならば、純粋というものは本当に残酷なものだ。一方的にこちらの心を抉り、己がいかに穢れているのかを思い知らせ、その上、何の罪の意識にも気付いてはいないのだから。
背後より注がれる視線に、返す気にもならない。
そんな私に向かって、ニフは続けて言った。
「全てが終わったら、アマリリスと戦わずに逃げて、私に会いに来てほしいんだ」
馬鹿な女だ。
こいつの血肉を手に入れるのは本当に簡単な事かもしれない。
衣服を破り、裸にしたとしても、爪や牙で引き裂かれたとしても、命を奪われる時にならないと、ぎりぎりまで私に殺されるという発想に至らないだろう。
簡単であっても、手を出す気にはならなかった。
こんな女の血肉を貪った所で、その美味を濁らせるほどの罪悪感が私を襲うだろうと分かっているからだ。
「約束はしない」
私はニフに言った。
「お前はただ、竜族と良好な関係を築き、ルーナの魂を慰める事だけを考えるといい」
反論のようなものは起こらなかった。