4.病み上がりの女
ニフテリザは考え事をしていた。
すっかり顔色も良くなってもなお寝台に潜らされているのは、竜族や人間の看護人がやたらと口うるさく彼女を叱責するからだ。
勿論、それで不満がないわけではないようで、ニフは上体を起こしたままじっと自分を覆う毛布を眺めていた。
彼女は一人きりだ。
付きっきりで世話をしていた看護人も今はいない。その誰もいない時を見計らって、私は影から這い出し、ニフに声をかけた。
「どうした?」
その一言で、はっとニフの意識が現実に引き戻された。
「何を考えている?」
残虐な世界を知って常に怯えている草食獣のような目がこちらを見つめてきた。
そうして、紛れもなく人間の姿をとっている私の姿を目に宿すと、少しだけ安堵したように息を吐いた。
変な話だ。
私が人狼であると知っていながら、その姿に安堵する人間がいるなんて。
「カリス、あなたはアマリリスに付いて行くって言っていたね」
毛布を掴みながら、ややたどたどしい口調で彼女は言った。
「やっぱり、私は置いて行かれるんだね。アマリリスがさっき、そう言いに来た」
寂しげなその顔を見つめ、私は言葉を探った。
何か言ってやらねばならないという不可思議な強迫観念だった。
しかし、なかなか上手い言葉は出てこなかった。人間を騙す人狼が笑えたものだと自分でも思う。
しかし、どんなに自分を嘲笑おうと、その時、私は黙ってニフの姿を目に映していることしか出来なかった。
そんな私の表情がどんな色をしていたかなんて、自分では分からない。
ただ、ニフはちらりと私の様子を見ると、淀んでいるのであろう彼女自身の心をグラスに注いだ葡萄酒のようにそっと揺らしてから、少し寂しげに溜め息を吐いた。
「ごめん、足手まといだって自分でも分かっていたさ」
寂しいという感情だろうか。それとも、悔しいのだろうか。
役立たずだと言われて不満を抱かない者がいるとは思えない。この地に置いて行かれるということは、ニフにとってこの上ない屈辱であっただろう。
だが、そうだとしても、ニフはそれ以上、醜く怒ったりはしなかった。
そんな彼女を見つめ続け、私はようやく言葉を見つけた。
「この地にて眠るルーナは、お前がいてくれれば寂しがらないだろう」
そっと告げてやる自分の声が、まるで人狼ではなくなったように思えて少しだけ気持ち悪かった。
私の自我はすっかり狂わされてしまっている。
そもそも、こんな出来事に巻き込まれて、最後まで平常でいられる者なんて何処に居るのだろう。
ニフはそっと目を閉じた。その瞼の向こうで涙が生まれているかどうか、私には分からない。けれど、彼女は間違いなくルーナの事を思い返しているようだった。
ルーナの死にざまを私も少しだけ目撃した。
影の中からゲネシスが世界の最後の望みまでも剣の生贄にしてしまわないようにと、あの《赤い花》を見守っていた時だ。竜族が誰も動けない様子であるのは既に確認済みだったから、自分が動くしかないと思っていた。
そうして私は鉢合わせたのだ。
弱々しい獣が偽りの牙を剥いたがために、呪われた剣の生贄になってしまうその瞬間を。
その時のゲネシスの表情が目に付いて離れない。
贄として生を受けて以来、生き物としての権利の殆どを奪われ続けていた幼げな娘を、力の限り刃で叩き斬るその姿。
それは哀れな村娘が猛獣に襲われているかのよう。
まるで、奴の方が獣のようだった。
「ルーナはアマリリスの方が嬉しいだろうな」
震えた声でニフが呟く。
自嘲気味だが、声の調子は先程よりも暗くはない。ただ、その両目の瞼は閉じたままで、やがて、その瞼も両手で覆われてしまった。
死した仲間を恋しがっているのだろう。
ほんの一瞬だけだったが、一人きりで月夜を眺める身の上となったかつての自分の姿が頭を過ぎった。
「そんなことない」
静かに泣くニフを横目に、私は言った。
「あの化け猫はお前にだって懐いていたじゃないか。アマリリスの分まで、お前がいてやれば、ルーナも満足だろうよ」
含みも持たさない自分の言葉は、反芻すればするほど不思議なものだった。
クロを失ってどのくらい経っただろうか。
人狼とはどういうもので、どんな感情を抱き、どんな価値観に縛られて生きているものだったか、私は忘れてしまった。
家族の元で恋も知らずに過ごしていた頃とも、クロを知って恋に身を焦がして過ごしていた頃とも、更にはアマリリスと出会い憎しみで心の血を流しながら過ごした頃とも、今の私は違うようだった。
「そうかなあ……」
掠れた声でニフは言った。
指の間より少しだけその眼が見える。涙を隠すのは、みっともないとでも思っているからだろうか。人間の考えることは、私にはよく分からない。
「だって、ルーナはアマリリスの僕だったんだよ」
「ああ、知っている。ここ数日間、嫌というほど教えられてきた」
その言葉を受けて、ニフの目がこちらを向いた。
不安げな顔。心配しているのだろう。その慈悲が向けられているのは無論、私ではなく、私が散々見張ってきたあの赤い花だ。
「アマリリスは……その……大丈夫なのかな?」
「大丈夫って?」
「えっと……」
即座に口ごもり、ニフは言葉を探す。その間に、私もまた思案を巡らせた。
ゲネシスにルーナを殺させるというのは、グリフォスの策略だったのだろうか。それとも、偶然だったのだろうか。何故、ルーナは引き返したのか、そして、何故、絶対的主であるはずのアマリリスの命令を無視したのか。
魔女とその僕という存在に詳しいわけではないが、非常に気になった。
もしかしてグリフォスは、アマリリスの戦意を根こそぎ削いでしまうためにルーナというか弱い存在をゲネシスに殺させたのだろうか。
いや、ひょっとするとそれは、アマリリスだけではない。
ゲネシスに対する私の心を見透かして、私の戦意を削ぐために彼の罪をわざと増やしてしまったのだろうか。
――どちらにせよ、こんな事で私は戦意を喪失したりはしない。
ニフを流し見てみれば、彼女はまだ続く言葉を見つけ出せていないようだった。
「あの女には私が付いている」
仕方がないので私はそう言った。
「お前が心配する事はない」
しかし、生意気にもニフの表情は優れないままだった。