3.竜族の娘
影に紛れ、リンの生家を移動するという行動もいつの間にか日常のものになっていた。
明日、私もまたアマリリスと旅立つと言う事は、この影の空気も、冷たさも、光景も、見納めということだ。
そう思うと少しだけ寂しい気がした。
生まれた町をクロと共に飛び出して以来、私達は一つの場所に留まるという事を知らなかった。若いうちに色々な世界をこの目で見つめ、そうして自分達にとって心を揺さ振られるほど気に入るような場所を見つけたら、その時はその場所に留まり、子を育もうとそう誓い合っていた。
アマリリスさえいなければ、当然のようにそんな未来はやってきていただろう。
或いは、私達がもっと早く、定住の地を見つけていたら。
しかし、そんな妄想は虚しいだけだ。
クロは死に、私はクロを殺した忌々しい仇に寄り添う犬となった。まっとうな人狼として正しいのはアマリリスを殺す事だけれど、まっとうな生き物として正しいのは今のアマリリスに出来る限りの力を貸す事である以上、仕方ないことだ。
そう自分に言い聞かせる事でやっと、私は精神を保てていた。
一回、開き直ってしまえば楽なものだ。
少なくとも今は、私は単純にリンの生家の空気との別れを惜しむ事が出来た。そうして、そのついでに影に紛れたままリンが一人籠っていた個室へと忍びこんだわけだ。
影の中、壁の中、何処とも言えぬその空間の中に潜みながら、私はじっと何歳かも分からないような竜族の娘を見つめていた。
鱗もなく、耳の形も竜族にして比較的普通の人間のようで、目だけがはっきりと竜族特有のものと分かる。
髪を下ろし、剣を手放し、鎧を脱げば、ますます彼女はただの小娘にしか見えなかった。リヴァイアサンの血の匂いさえなければ、人狼の食指も幾らか動いたことだろう。
そんな事を想いながら、私はその可愛らしいトカゲ娘を眺めていた。
「カリス……さん?」
流し目で迷うことなくリンはこちらを見つめる。
私の姿など見えないはずだが、生憎、彼女は人間ではないのだ。大人しくその血走った竜の目に従い、私は狼の姿で影より這い出た。
「さすがは竜族だ。その並々ならぬ力をもってしても、ゲネシスには敵わなかったのか」
「彼は既にジズとベヒモスを得ていましたからね。勿論、私も信じられなかったけれど、竜族の男たちが敵わなかった者相手に、私が敵うわけもありません」
「そのようだな。だが、それでも、お前達はアマリリス――あの弱々しい赤い花にその裁きを任せるというわけだな」
皮肉を込めてそう言ってやると、リンは私から目を逸らした。
俯き加減のその横顔は、やはり人間――それも、なかなかの美少女にしか見えない。だが、その流れる髪は間違いなく鬣であるはずだし、皮膚の細やかな所には鱗の名残があるはずなのだ。
「その昔、神々の流した血から生まれたという《赤い花》は私達にとっては英雄なのです。神獣の末裔である私達であっても引き寄せられないような奇跡をもたらす存在なのです」
「身勝手なものだ。そう信じるなら、何故、お前達は馬鹿な人間から彼らを守ってやらなかったのだ。こんなにも減ってしまうまで、何故、放置していたのだ」
「守る術を知らなかったからですよ、狼さん」
ややからかうようにリンはこちらを見た。
「真面目に考えた時にはもう遅かった。私達のような竜族も、一角も、人鳥も、皆が皆、己の始祖とその恋人である巫女の事で頭が一杯だったのです。でも、それでも、神々はきちんと《赤い花》を使わしてくれた。まだ望みが断たれたわけではありません」
「お前達でさえ敵わなかった者相手に、あのアマリリスをねえ……」
嫌味を込めてそう言ってやると、今度はリンも強い視線でこちらを見つめた。
「あなたはもう部外者ではありませんね。目撃した者、関わった者として、生き物として正しい選択をした。私は今も期待しています。これからもきっと、その高い志を失わず、強い心で茨の道を歩んでくれると言う事を」
「あの女を守り、目的を果たすまで付き添えと、そう言いたいのだな?」
「あなたが恨みに身を任せたいのなら、止めませんけれどね」
見透かしたように言われたが、私は私で動じなかった。
「恨みに身を任せたからって、死んだ者は戻って来ない」
「けれど、あなたは全てが終わったら、アマリリスさんを殺すつもりでいるのでしょう? アマリリスさんはそう信じつつ、逃げない気でいますよ」
「そのようだな。だが、私だって命がけだ。役目が終わればアマリリスは魔女に戻ってしまうのだろう? 久しぶりの性に理性を狂わされれば、全ての人狼を恐れさせた最悪の魔女に逆戻りだ。その最初の生贄に私がなる事だってあり得る話だ」
むしろ、そんな未来の方が想像しやすかった。
クロの仇を取ると誓った日から、心の何処かで私は自分の勝利を疑っていた。きっと私はアマリリスに負け、クロと同じように惨死し、死後の世界で愛しいあの人と再会する事だろう。そう信じ、むしろそれを願って、あの女と戦おうとしていたのだと自覚している。
「それでも、ついて行くのですね」
リンに静かに言われ、私はそっと笑みを浮かべた。
「私を茨の道に進ませたいのだろう?」
床に手をついて、私はふと自分がいつの間にか人間の姿になっていた事に気付いた。
どうやら私も感情が乱れているようだ。動じないふりをするので精一杯なだけで、本当は沢山の事に動揺している。
その内情が変身と言う形で漏れだしていたらしい。
だが、どうだっていい。ちょっとした弱みを悟られたからといって、見苦しくももがくつもりは一切なかった。
そしてリンもまた、そんな私の内情などどうでもいいようだった。
「あなたを信じています」
そうとだけ言って、彼女はそっと首を傾けた。
長い鬣がそっと零れ落ち、光のように垂れるのを、私は黙って見つめていた。