2.奪われた巫女
リンの言っている事が、私にはよく分からなかった。
同じくアマリリスもそうであるようで、窺うようにリンの竜の目を見つめていた。だが、リンはそれでも構わず、話を進める。
「私達が望むのは、その巫女の鏡をマル様の霊魂にかざす事です。混乱に囚われ、天に昇る事を忘れている彼女をどうか癒してください」
焦りを落ち着かせながら、リンは言う。
巫女の鏡を霊魂にかざす。そんな抽象的な指示では何も分からない。
そもそも、マルの霊魂が大社に囚われているとはどういう事だろう。グリフォスに目の前で喰われたのは何だったのだろう。
私とアマリリスの眼差しを受けながら、リンは落ち着いた声で続けた。
「行けばきっと分かります」
竜の眼差しでアマリリスの持つ鏡を見つめ、リンはそのままそっと目を細める。
「三神獣は不老の神。けれど、巫女は違いました。時の重なりがそのお身体を滅ぼす時、一人残される三神獣を憐れんだ神々は、巫女が生まれ変わってもまた同じように戻れるようにと奇跡を約束しました。けれど、マル様をはじめ、巫女の生まれ変わりというものは、決して個々の存在ではなく、飽く迄も初代の巫女の魂を継承したに過ぎないもの」
「――つまり、プシュケの肉体と精神は飽く迄もプシュケで、初代の巫女の魂を持っていただけ、ということなの?」
アマリリスの問い返しに、リンは頷いた。
私にはさっぱりだが、この女なりに理解してきたらしい。
理屈は分からないけれど、何をやらせばいいのかはもう分かった。分かった以上私にはどうだっていいのだが、どうやらアマリリスはまだ知りたいようでもあった。
「グリフォスはプシュケ様がプシュケ様であるという部分だけを食いちぎり、マル様の魂だけは大社の中に捨ててしまった。これには意味があります。巫女とは神獣と対なるもの。肉体は神獣の身体と、精神は神獣の感情と繋がっていると言われています。そして魂は封印。神獣の力が悪用されぬように、巫女の存在そのものが封印となっていると」
供物として捧げられてからは傍を離れない。
それは人間や魔族は勿論、私のような流浪の人狼にまで知れ渡っている常識でもあった。
「グリフォスはきっとあの人間の青年に神獣の力を移した上で、巫女の力を利用して操りたいのでしょう。罪を被るのは人間のみ。そしてその人間を支配するのは自分。その為に、封印である魂だけを残して去ってしまった……」
ああ、ゲネシス。
お前はなんて哀れな男なのだろう。ひたむきな気持ちが利用され、あんなにも無残な大罪人として世の中からこれ以上ないと言うほど憎まれてしまった。
不思議なものだ。
何故、私はこんなにも悲しんでいるのだろう。
アマリリスに味方し、奴の破滅が訪れるように力を貸していながら、まだ心の何処かで彼が救われるような道がないかと期待している。
「でも、魂が残ったことで、まだ可能性は残されているのです。その巫女の鏡はマル様の魂と惹かれあいます。鏡が秘めるのは巫女の力そのもの。肉体と精神、そして愛する存在を奪われて混乱しているマル様の魂も、その力を感じればきっと自分が何者であったか思い出し、神々の元へと戻れるのです」
「マルの魂が神々の元とやらに戻れば、聖域は元に戻るのか?」
思わず私は訊ねた。
分からないことだらけだが、一番大事なのはそこだと思っていた。
アマリリスが労力を惜しんでいる間にも、ゲネシスはグリフォスにかどわかされ、そんな身の上も気付かずに己の中の正義を信じて魔女討伐に向かおうとしているのだ。そんな彼をこれ以上の汚名から救えるのは忌々しいこの赤い花だけだというのなら、出来るだけ無駄な行動をさせたくなかった。
だが、リンはそんな私の内情まで察したような視線で頷いた。
「勿論です。けれど、それだけでは不十分なのも確かです」
アマリリスの双眸に不安げな色が浮かびかかる。今でさえ、人狼に恐れられながらも弱き心臓を持つ彼女の肩にかかるには重すぎる圧力なのだろう。
リンは声を低めた。
「全てが元に戻るには断罪が必要です。罪人からは神獣を解き放ち、悪魔からは巫女の力を解き放つ。すなわち、その死をもって償わせる必要があるのです」
重たい声色に、私の心は震えた。
断罪。死。
その鉄槌はあまりにも重く、頭蓋骨を砕くくらいでは済まないのだろう。そのくらいの罪をゲネシスは既に犯してしまった。それを止められなかった私も、多少なりとも罪はある。私に与えられる罰はなんだろう。
心が痛く、張り裂けそうだ。
ゲネシスが殺されなくてはならないのだと思えば思うほど、私は何故だか無様にも涙を流してしまいそうになるのだ。
これこそが無力だった私に与えられた鉄槌なのだろうか。
アマリリスは静かにリンの言葉を受け止め、巫女の鏡を握る手に力を込めていた。彼女としては本望だろう。心より愛した僕を殺した男など、何の躊躇いもなく殺せることだろう。それを世界が望んでいるという後押しまであるのだから。
――では、私は。
人狼として正しくあるべきだと思い続け、今も想っている。
無論、人間寄りの社会の中で、人間寄りに敷かれたルールの上で生きていくつもりは更々ないけれど、全ての生き物の為の世界の中で、全ての生き物の為に敷かれたルールであるならば当然従うべきだと思っている。
だからこそ、私はずっとゲネシスを止めてきたのだ。
生き物として当然の事と想っていたからこそ、止めてきたのだ。
それなのに、どうして今になって、私は苦しんでいるのだろう。この先に待っている望むべき結末を、何故、恐れているのだろう。
言葉に出来ない葛藤を胸にしつつ、私は黙した。
それ以上、何も問わない私を見た後、リンはアマリリスに向かって告げた。
「明日の午後、大社まで共に行きましょう。その前に、アマリリスさん、あなたの口からニフテリザさんとよく話し合ってください。我が町は《赤い花》の従者に選ばれた彼女を一生お守りいたしますよ」
リンの確かな誓いに対し、アマリリスは黙ったまま頭を下げた。