1.赤い花の勇者
リンは見た目こそ若き娘に見える。
だが、竜族というものは人間とも違えば人狼とも違うので、彼女が一体いくつくらいなのか、私には全く分からない。
分かっている事と言えば、鱗もなく、耳も人間のようで、その目が竜のものでなければ普通の村にもいそうな小娘の外見であるのに、あのゲネシスの攻撃にも耐え、その傷もまた死するものには至らなかった頑丈さだ。
一瞬にして襤褸切れのようにされた人鳥や一角を思い起こせば、それは奇跡にも思えた。
きっとゲネシスはゲネシスで、竜族どもの命を奪うような余裕がなかったのだろう。最後の一体を前にして、義弟ミールを救える力を前にして、冷静でいられるわけもない。
その余裕のなさが、リンを始めとした竜族共の命を守った。
リンもそれはしっかりと分かっているようで、常に真摯とした表情で、巫女に選ばれた《赤い花》たるアマリリスへと向いていた。
場所はやはりリンの生家。
その一室にて、リンはアマリリスと私を呼んだ。ニフは回復し、時は迫り、もうこれ以上待つ事は出来なくなっていたからだ。
――この女を失えば、再び絶望が世界を覆う。
影に隠れる事もせず、私もまた大人しくリンに耳を傾けた。
「大社にはもう、我らが母リヴァイアサンはいません」
寂しげな声で彼女はまず、そう言った。
「神獣の命を奪うのは大罪。死後もその償いは免れず、悪魔でさえも恐れるほどに深いものになってしまう」
「だからグリフォスは彼にやらせたのね」
アマリリスが力なく言うと、リンは頷いた。当の私はと言うと、不快な気持ちが高まって、思わず牙を剥いて唸ってしまいそうだった。
「これまでも言い伝えはありました」
リンは言った。
「実際に起こっていないだけで、三神獣が滅ぼされる未来を予知した御告げはあったのです。けれど、それが起こる時代が来るなんてきっと誰も思わなかったでしょう。神獣を崇拝している時代だったら、こんなに恐ろしい事に手を染めるなんてどんなに悲しいことがあっても出来なかったはずですから……」
ゲネシスは騙されたのだ。
不幸が重なり、運も悪かった。
彼は決して悪くないなどと盲目的に庇うつもりは一切ないけれど、それでも、私は悲しかった。彼にあれほどまでの罪を負わせる前に、どうして止められなかったのかと思うと、辛くて仕方がなかった。
「その昔、《赤い花》の勇者達は三人の巫女を救いました。時代も違えば、性別も違う。けれど、皆、《赤い花》を継いだもので、遠い昔、初代の海巫女マルが、我らが母に捧げられる際に導いて下さった勇気ある青年と同じ血を引いた者たちです」
その血がアマリリスにも流れている。
かつて欲望に駆られた人間共に根絶やしにされかけ、それでもどうにか絶滅を掻い潜った弱々しい一族の血が、人狼殺しの恐ろしい魔女の中にも流れている。
「ジズ、ベヒモス、そしてリヴァイアサンは、それぞれ《赤い花》を継ぐ者に感謝し、神々にその旨を伝え、いつか来るだろう時代に備える為に、《赤い花》にこそ相応しい神器を願いました」
リンの言葉を受け、私はちらりとアマリリスを見つめた。
その一つを彼女は抱えている。巫女の鏡という名の神器。グリフォスに奪われた私の力を呼び醒ましてくれた不思議な鏡だ。
「その鏡を最もよく使えるのは《赤い花》を継ぎ、巫女の誰かに認められた者だけです」
鏡を抱えながら、アマリリスは浮かない顔をした。
それもそのはず。今までこの女がどれだけ己の無力さを味わってきたというのだろう。影よりずっと見てきた分、私もまたその気持ちは痛いほど分かってしまう。アマリリスというこの魔女が此処まで生き延びた理由なんて、偶然に他ならないのだから。
それでも世界は残酷なものだ。
震えの止まらぬほど怯えていたとしても、悲鳴を上げたいほど辛かったとしても、彼女がその役目を放棄する事なんて許されてすらいないのだから。
「私は、どうしたらいいの……?」
鏡を抱えたまま、アマリリスはリンに訊ねる。
その声は震えてはいるが、怯えきっているというわけではないらしい。そんな彼女の内面を見透かすように竜の目を向け、リンは声を潜めて答えた。
「その鏡と共に大社に向かい、巫女の亡霊を探してください」
亡霊。
目に見えず、いるかどうかも凡人には分からないもの。魔女であっても、人狼であっても、恐らく竜族であっても、死んだ者が霊となって現れるという説が本当かどうか、真に断言できる者なんていないだろう。
いるとしたら私はその者に縋る。
クロの亡霊になら、私だっていつでも会いたいのだから。
「――亡霊なんて探せないわ。そんな魔術知らないもの」
狼狽するアマリリスに対し、リンは頭を振った。
「魔術はいりません。あなたは向かうだけでいいのです。そう言われています。その鏡がきっとあなたを導き、混乱に囚われている海巫女の亡霊を天に返す事が出来るのだと」
「プシュケの亡霊があの場所に居るの……?」
アマリリスの言葉を聞いて、あの神秘的な人間の娘の顔が一瞬だけ甦った。
私とアマリリスの目の前で、グリフォスはあの娘を食った。
ああ、それだけじゃない。思い返せば私は、全ての巫女の死にざまにあった。耳について離れないのは悲鳴ばかりだ。生き物を食い殺すのとは違う苦痛を全身で受けながら、彼女達は残酷にも無駄に長い時間をかけて囚われていったのだ。
人間なんて糧に過ぎないと思っていた頃の私でさえ、手を出そうだなんてとても思えなかったほど神聖な娘。
そんな彼女の悲鳴を聞いて、あのように笑えるグリフォスが恐ろしくて仕方なかった。
「いいえ」
リンは寂しげに否定した。
「あの大社にて囚われているのは、もはやプシュケ様ではありません。彼女の殆どは、死霊に取り憑いたあの悪魔に奪われてしまっております」
「じゃあ――」
一体何なのか、とアマリリスが訊ねる前に、リンは答えた。
「混乱されているのはマル様。プシュケ様の肉体や精神と無理矢理切り離され、行き場を失った魂です」