9.選ばれし花
「ニフが良くなってきたってことは、直なのね」
ぽつりとアマリリスがそう言った。
意識を混濁させていたニフを放ったまま勝手に出発する事なんて出来るわけがなかった。心配せずとも急ぎ過ぎる必要はないと言ったのは神話に詳しいリンなのだ。恐ろしい事が起こったと言うのに、彼女は何故だか呑気すぎるほどにも見えた。
だが、神話に一番詳しい彼女がそういうのだから、そういうものなのだろう。
それに、今すぐに行けと言われても、アマリリスには時間が必要であるようだったのだから仕方がない。
私は目を逸らしたまま、答えた。
「さてね。それはトカゲ共にしか分からない。偉大な母を失ったというのに冷静でいられるからね、奴らは」
「別に冷静なわけじゃないでしょうよ。ただ、ニフの回復を急かす事が出来ないだけで」
そう言って俯くアマリリスをちらりと見つめ、私は溜め息を漏らした。
こうして見れば、一体誰が彼女のことを巫女に選ばれた《赤い花》であると見抜けるだろうか。どう見たって気の弱い町娘にしか見えない。何歳なのかは分からないけれど、アマリリスが魔女である事に気付かないような類の者ならば、この女が大きすぎるほど大きい役目を担っている事なんて想像もしないことだろう。
そのくらい、彼女には覇気が足りない。
今は亡きプシュケにあった神々しさの欠片もない。
しかし、それでも、今の状況ではアマリリスしか頼れないのだ。《赤い花》を持つ者にしか救えないというのならば、彼女しかいない。
「……《赤い花》がもっといたら」
ふとアマリリスがその言葉を口にした。
私は妙に反発心を抱いた。
「馬鹿が、それでもお前が初めに海巫女に会えば一緒だったかもしれんぞ」
自分で言っていてなかなかおかしかった。そういえば私は、アマリリスに同じような事を言った記憶がある。この世に《赤い花》がもっといれば、お前が選ばれるような事にはならなかったはずなのに、と。
その事を覚えているのかは分からないが、アマリリスは今一度私の顔を見つめた。
「ねえ、カリス――」
自分が魔女である事を忘れさせられたその女は、名も知られぬ花がそっと咲開くかのように、ぱちりと開いた瞼の下で輝く眼に疑問を浮かべた。
その目を見て、私は思わず顔を歪めた。
私の反応にも動じず、アマリリスはその先を言う。
「あなた、本当に私を殺したいと思っているの?」
はっきりと、躊躇いもせず、彼女は私の心を抉ってきた。
誇り高い純血の人狼として生まれ、誇り高い人狼の両親のもとで、誇り高い人狼となるべくして育てられた私は、人間の視線を掻い潜ってこそこそ生きてはいても、それでもやはり自分の言動に誇りを持ちたいと常に思ってきた。
アマリリスを憎み、殺したいと思う以上、そうしなければ気が済まないはずだった。
狼の愛は永久のものだ。お互いを慈しみ合うことは、人狼にとって本能的にも自然な感情であり、尊ぶべき道徳なのだ。
妻は夫の為に、夫は妻の為に生きるべし。
お互いがお互いを許し、認め、歩み寄り、そして共に世界を生き抜くという姿を見せることもまた、親が子にしてやれる最大の教育なのだ。
私とクロの間には子供はいなかったが、いつか子供を授かった時はそうしようと固く心に決めていた。私の両親だって、そういう者たちだった。
だから、アマリリスは憎み続けなくてはならないのだ。
夫の仇、妻の仇。それを牙と爪で引き裂くということは、人狼ならばごく当り前の権利であって、義務でもあった。
それなのに、それなのに――。
頭を掻きむしりたい衝動を抑え、私は冷静さを装って答えた。
「思っているぞ。なんだ、今さら怖くなったのか?」
笑っては見たが、うまく笑えているかも分からない。アマリリスの表情を見る限り、恐らく私の笑みは引きつっているのだろう。
だが、アマリリスはそれ以上、問い詰めるような事はしなかった。
私から目を逸らし、静かに呟いただけだった。
「……そう。それなら別にいいの」
他人事のような言葉を受けて、私の口からはまた溜め息が漏れだした。
いつからだろう。この女の傍でその吐息を感じていても、殺したいほどの怒りが生まれなくなったのは。
魔女の性を憎むべきなのだろうか。
アマリリスの本性を歪ませるほどの咎を与えた神々を恨めばいいのだろうか。
ああ、それとも、こんな神話の世界にアマリリスを向かわせてしまった運命とやらを呪えばいいのだろうか。
いずれも間違っていて、いずれも正しいような気がした。
かつては役目を終え、魔女に戻ったアマリリスと戦うことを望んだ。この手で、この牙で、この剣で、私を殺しに来るだろう憎き魔女と正面から戦い、クロの無念を晴らそうとだけ思ってきた。
しかし、あの後色々あった。色々とあり過ぎた。
私を取り巻く状況は、たった一つの目的さえも霞ませるほど、複雑で厄介なものへと変化してしまったのだ。
性より解放され、本当の心を見せたアマリリスの姿。
哀れにも憎しみに駆られ、大罪人となってしまったゲネシスの姿。
それらは確かに、私の判断を滲ませるほどの豪雨となって襲ってくる。
アマリリスから目を逸らし、私はそっと彼女に言った。
「お前が大社に行く時は、私もついて行く」
我ながらぶっきらぼうな声だった。
「影よりお前を守ってやるから、せいぜい感謝するがいい」
そうして、返答を待たずして影の中へと逃げ込んだ。
アマリリスは私の潜む影をめざとくも見つめ続けていたが、やがて、私の頑なな意思を汲み取ったのか、そっと己の膝元へと視線を送ると、数粒の涙と共に失った忠実な僕の名を唱え、そのまま目を閉じた。
あれがかつて人狼達に恐れられてきたアマリリス。弱々しい《赤い花》の生き残り。そして、選ばれてしまった最後の希望。
そんな彼女の姿を見つめ、私もまた影の中で眠りに就いた。