8.落ち込み
まだ無理をしていたのだろう。
泥沼に引き込まれるように眠りに就いてしまったニフを起こすには忍びなく、私はそっとその場を立ち去ってアマリリスの傍へと帰った。
かの女はまだ泣いているのだろうか。
私は魔女でも魔術師でもないから、隷属を持つ事になる主人の気持ちなんてちっとも分からない。だが、アマリリスがしっかりと立ち直るのには時間がかかりそうに思えた。そのくらい、隷属となったルーナという存在は大きかったらしい。
騒がしく、わがままで、純粋な子猫のような魔物。
初めて見た時は、その好ましい魅力に涎が出そうだった。怖がらせれば怖がらせるだけ、欲望を掻き立てられる姿。柔らかそうな肉は美味であるといわれている。実際に喰ったことはないし、目的もよく知らないけれど、ああいう魔物はよく村に閉じ込められているものなのだ。
一生に一度ありつけるかも分からない御馳走。
アマリリスの傍で無邪気に笑う少女のようなその姿は、長らく私にとって手の届かない高級食材にしか思えなかった。
ところがどうだろう。
本当に手の届かない死の世界へと旅立ってしまった彼女を思い出してみれば、甦るのはいつだってゲネシスに斬られた私をアマリリスの命令で手当てするという、かいがいしい少女の姿だった。
美味しそうだという印象は決して消えたりしない。
機会さえあればぜひとも食べてしまいたかったのは嘘偽りのない私の欲望だ。
アマリリスさえ来なければ、初めて出会ったあの夜の間に、ルーナはその名を名乗る事も無く私の腹に収まっていただろう。そして、私の方は、一生に一度味わえるかも分からないその旨みで、突然伴侶を失うことになった心の傷を癒していたことだろう。
その印象は今後も変わらない。
けれど、アマリリスと約束してからは、責任を持って彼女の事も守ってやろうと決めていた。食欲は他の生き物で晴らせばいい。どんなに美味しそうであっても、罪を犯してまで手を伸ばそうとは思わない。
そんな目でルーナの事は見ていた。
死んだと知った時、動揺しなかったわけではない。下らないと言ってのけたが、アマリリスの気持ちが分からないわけでもないのだ。
――あなたは内心喜んでいるのでしょうね。
違う。喜んだりしない。
「……カリス?」
戻るとすぐにその声がこちらにかかった。
獣の目で眺めてみれば、アマリリスは間違えることも無く私の潜んでいる影へと視線を向けている。その虚ろな表情を見ていると不安になってしまう。どうしても彼女の性が我々人狼を残酷に殺すものであった事実を思い出してしまうのだ。
だが、そんな不安もやがては消えた。
やはり予想通り、アマリリスが今もまだルーナの死から立ち直れていない弱々しい女のままであることが分かったからだ。
隷属なんてものを易々と作るからだ。
気持ちも分からないはずなのに、私はそう思ってしまった。
だがその件に関しては何も言わず、私は大人しく影から這い出て、静かな声でアマリリスに伝えた。
「ニフに会ってきた」
その言葉に、憂いを帯びた表情がやや変化した。意外そうな表情だ。
「もうだいぶ身体はいいようだ。お前について行きたがっていたが、ここに残るのもまた協力になることを教えてきてやったぞ」
そう告げていて、何故だかふとゲネシスの顔が過ぎった。
思えば彼もよく意外そうな顔をしていたものだ。人間らしく頑固で、私から見れば馬鹿らしいくらいに偏見に満ちていた彼だったけれど、その真っ直ぐな所をからかってやるのは思っていた以上に楽しいものだった。
それこそ、何よりも退屈が紛れるほどに。
アマリリスの方は、そんな事を思われているとも知らずに、慌てたように私から目を逸らした。その顔に浮かぶ表情は何だろう。ばつの悪そうな様子で、彼女はそっと両目を伏せたのだった。
「カリス、さっきは御免なさい」
その言葉に思わず失笑してしまう。
「謝る必要はない。気味が悪いだけだ」
本心からそう言ってやったのだが、アマリリスにはあまり効果がない。表情を変えぬまま、彼女は再びその妖しい美しさを備えた目を開けた。
「ニフはなんて……?」
「役目が終わっても、お前を殺すなだとさ」
素っ気なく言ってやるとアマリリスの表情が面白いほどに戸惑いを顕わにした。
私とアマリリスの密なる約束を曝してしまってから、ニフは面白いほどに頑なになった。そんなニフの態度を目の当たりにすると、アマリリスはいつだって困惑するのだ。その光景は、長くアマリリスを憎みつつも恐れ、怯えていた私にとっては、随分と面白いものに違いなかった。
アマリリスがじっと私を見つめる。
その沈黙の眼差しに対し、私は即座に告げた。
「勿論、断ったよ。ニフにはもう手を出したりしないが、お前は別だ。役目を終えて普通の魔女になる前に手をつける」
迷わずにそう言ってやったが、アマリリスはやはり動じなかった。
「別にそれでいい。また性に縛られるのは嫌だもの」
それ以上は何も言わなかった。
以前ならばこの女はルーナとニフの未来を心配していた。だが、ルーナは死に、ニフはといえば確実に安全な場所を手に入れた。
どんな人狼であれ、竜族の守る女を掠め取ろうとか思う馬鹿はいないだろう。そんな事くらい、アマリリスも分かっているはずだ。だから、彼女が私との約束を律儀に守る必要もないはずなのだが、それでも、彼女は彼女で頑ななのだから呆れてしまう。
「相変わらず面白くない奴だ。ニフだけじゃなく、死んだルーナが悲しむぞ。もっと足掻けばいいものを」
「カリス、あなたの方は変わり過ぎよ。愛した人の仇になんで生きる希望を持たせようとするの」
即座に言い返されて、私は思わず鼻で笑った。
「少しは元気を取り戻したようだな」
そう言ってやると、アマリリスは表情を殺したまま両目を伏せた。