7.魔性の女
考えれば考えるだけ悩みは深まっていくのだと嫌というほど実感できる。
ニフ。この女は魔性の者だ。町の者たちがこぞって彼女に不利な証言をしたのも頷けるほど恐ろしい。しかも、本人は無自覚ときたものだから尚更だ。
けれど、幾ら恐ろしいからといって、私にはこの女を破滅に追いやろうなどとは思えはしない。ついでに言えば、この女を傷つけるのも恐ろしかった。
その魅力は天性のものなのかもしれない。
ある者を惹きつけ、ある者の嫉妬を買う。ある者に付けこまれ、ある者に拒絶される。そうして招いたのがあの町での事なのだろう。
それは決して計算ではなく、本能的なもの。
「お前が恨んだところで、私には関係がないよ」
苦い薬でも呑むような気分になりつつも、私はニフに対してそう言った。案の定、ニフはいい顔をしない。けれど、私を恨むのではなく、現実に失望しているような顔であった事が、私の目に強く焼きついた。
何故だろう。
他人とは思えない表情だった。
そんな顔をしたニフに向かって、私は静かに告げた。
「アマリリスの事とお前の事は別だ。お前を騙して食べようだなんてもう思わない。けれど、それはお前が選ばれた《赤い花》の従者だからではない。グリフォスのせいでおとぎ話はもう崩されてしまったのだからね」
言い伝え通りならば、アマリリスが海巫女に選ばれ、ニフやルーナを連れているだけでも悪魔の手は伸びなかっただろう。
けれど、言い伝えはもはや錆びついていて、世界は思っていたよりも新しい波に呑まれていた。かつて勇敢なる《赤い花》の青年が海巫女を守った時代は、悪魔の声に耳を貸すような魔物や魔族、そして人間もいなかっただろう。
だが、時代は変わった。
伝説の主役たる《赤い花》が限度を超えて狩られ始めた頃から予兆はあったのかもしれない。狩られる事自体はおかしくもなんともないのだ。問題は、狩り尽されそうになっている今でさえも、彼らが隠れ住まなくてはいけないという現状。
それだけ、国教に関係のない神話は人間に対して効力を失っている。
その結果がゲネシスという大罪人の誕生だった。彼に聖域を踏み躙られ、従者の一人であったはずのルーナを殺された今、何もかもが気休めに過ぎない。
そう、私がニフを食ったところで大して状況も変わらないのだ。
忌々しい事だが、現状は、《赤い花》を継いだアマリリスさえ残っていれば、それでいいくらいに落ち込んでいる。
だが、そう分かっていても、ニフに手を出す事は出来ない。
「ニフテリザ」
私はその名を呼び、子羊のような目をじっと見つめた。
「ここから先はお前には辛い。お前は竜族と共にここに居ろ。ここに留まり、無垢なルーナの死霊がグリフォスのような者に捕まらぬように弔い続けるんだ。お前が無事でいる限り、アマリリスはきっと安心して戦えるだろう。お前達の今後ばかりを気にしていたからな、あの女は――」
影の中、アマリリスと密やかな契りを交わした時のことがふと頭を過ぎった。
今は亡きルーナと目の前に居るニフの未来を託し、己の全てを私に捧げると申し出た時、私は信用出来なかった。私を殺して欲を満たすために何かを企んでいるのではないかと疑い続けた。
けれどやがて、それは間違いだったと気付いた。
あの女はもはや魔女ではない。精神を汚濁し続けていた醜い性は巫女によって浄化され、今もやはり甦る事はないのだ。
きっとアマリリスは今の姿こそ本来のものだったのだろう。
神々に定められ、作られた姿が今のものなのだろう。狂ったように人狼を追いかけて無残に殺す悪趣味な魔女などではなく、情を深めた仲間の死を悼み、苦しむようなごく当り前の女だったのだろう。
そうだとしたら、この世はなんて残酷なのだろう。
「そうだね」
ニフは力なく言った。
「人間で、しかも女である私は、本当に足手まといなのだろうね。人狼であるあなたや、魔女であるアマリリスと比べたら、どんなに努力しても足を引っ張ってしまうのは、この私だって本当は分かっているんだ……」
「足手まといなのは訂正してやらんぞ。だが、ニフ、ここに留まるのは悪い事ではないぞ。死人は死んでしまったらそれっきりというわけではないのだ。お前まで離れてしまったら、この地に埋葬されたルーナは寂しがるだろうよ」
何故だか、慰めたくなった。
この女を前に語れば語るほど、優しい言葉の一つや二つを並べたくなってくる。それは飽く迄もこちら側が勝手に抱く感情に過ぎないものなのだけれど、これこそがニフテリザの持つ魔性であり、トラブルの元なのだろう。
人間に都合のいい国教を説く潔癖な祭司などは、きっとこの女を前に今の私と同じ思いを抱いた事だろう。それはもしかしたら、貞淑さを重んじる彼らにとっては悩ましいほどのものだったかもしれない。
もしもアマリリスがあの町を訪れず、その結果、この女の血を継いだ吸血鬼が世の中に誕生していたらどうなっていただろう。
想像に留め、私はニフへと更に言った。
「それに、私もその方が安心する」
日頃、混乱を強めてきている私ではあるが、これだけは自信を持って言える。間違いなく本心からの言葉だと。
人狼は人間を騙す。
生きて行くためにその血と肉を得なくてはならないからだ。また、そうでなくとも、人間に混じって生きるということは、己の身分をひた隠しにして、ただの人間であるように振る舞うということだ。それもまた騙している事に違いない。
思えば私は本当に幼い頃から嘘を塗り固めて生きてきた。生きるための嘘を吐かなくていいのは同じ人狼の血を引く者が相手の時だけ。それも、クロのように信頼できるような相手の時だけだ。
そうやって生き延びれば生き延びるほど、嘘に抵抗はなくなった。
抵抗なんて抱けば死ぬだけであるのだから。
けれど、今だけは、自信を持って言える。私は嘘をついていない。本当に、確かに、心の底からの言葉であったと。
誇り高い人狼であるはずの私にそのような台詞を言わせた魔性の女は、驚いたように私をしばし見つめた。
子羊のような目。それを美味しそうだと思ったのが遥か遠い昔に思えてきた。
やがて、ニフはその目を細め、力なく微笑んだ。その口より雫のように漏れていく言葉は、想像通りのものだった。
「ありがとう」
幽かな声が闇夜を飾るように灯る。
「ありがとう、カリス」
友人にでもいうようなその声を、私は黙ったまま受け取った。