6.在りし日の幸せ
クロという響きが私の頭を駆け廻る。
彼の名を呼び、その美しい顔が親しみを浮かべてこちらを振り返る度に、私は幸せな気持ちになれた。
人狼に生まれた事を呪ったりはしなかった。
クロと共に生きているという実感は、どんな罪悪感ももみ消してしまう。たとえ、人間達に恨まれ、睨まれ、汚らわしい悪魔として呪われたとしても、私やクロの意識が変わることなんてあり得なかった。
恨まれれば恨まれるだけ。憎まれれば憎まれるだけ。
私達は無知な人間を軽蔑した。無知で愚かで自分勝手な奴らだと影で罵り、その美味い肉を貪った。生きるために人を喰わねばならないという自然の理に罪悪感を生まなければいけないと言うのならば、それは人狼を生みだした神々の失敗であり、我々のせいではない。
まあ、そもそも、人間と言うものは都合よく世界を理解しようとするものだから、我々のような人狼の始祖を作ったのは悪魔や悪神だとでもいうのだろう。
だが、私は解せなかった。クロも同じだろう。
一体人間の何処が家畜と違うというのだろう。私達と何が違うというのだろう。
彼らは事あるごとに偽りの神を頼って生贄を用意する。時には自分達の平穏の為に同胞さえも贄にする。その時の彼らの目はいつだって獣のようだった。狂気に支配された仲間を前に怯える贄は子羊のような目をし、それに何の同情も抱かない鬼のような人間達はいつだって我々人狼よりも恐ろしい表情を浮かべる。
その光景をあらゆる村、あらゆる町で腐るほど目にしてきたのだ。
そんな彼らに一方的に穢れた存在と罵られるのは不服だった。そして、そんな事が重なる度に、私は人間という生き物の大きな特徴をようやく理解した。
これでも子供の頃は両親の言いつけを守って町に溶け込み、人間の子供を友として遊んだ事もあるのだから、全ての人間を嫌っていたわけではない。そこはクロも同じであるようだった。けれど、野で育った彼の方は私ほどでもなかったらしい。
いっそ、全ての人間を恨めたらどんなに楽だっただろう。
間違いなく私は、私の正体を知る事となった人間の表情を見る度に、その人間の血肉を手に入れる度に、虚しい気持ちになった。
それは、長い間、私が無視し続けてきた自分の本心でもあった。クロを失ってからは特に増大したような気がする。そして、愚かにも一人の罪人と会話を重ねていくうちにも、その気持ちは残酷にも主張を強めていった。
まるで片思いでもしているかのよう。
食べ物である人間を下に見ながらも、その集団に入られないことに寂しさのようなものを抱いているのは自分でも気づいていた。
だからこそ、人間に恨まれる度に、私は人間に失望していったのだ。人狼の血を一滴も引かないような者は老若男女問わず信用しなかった。それはクロと過ごした甘い月日でも、クロを奪われてからの燃えかすのような灰色の月日でも、同じだった。
そうだったはずなのに。
ゲネシス、そして、このニフテリザとかいう女。
魔物どころか魔族ですらない者達に、何故、私は心を揺さ振られなくてはならないのだろう。どんなに考えたところで、今さら、ニフに対して警戒心を持つ気にもならなかった。
「一緒に過ごしていた頃は、どんな事をしていたの?」
背後より単純な質問が生まれ、私は短く答えた。
「放浪だよ」
「放浪――」
「歩ける範囲で色んな場所に訪れた。人間の王の権力が届くような息苦しい光の領域から、嬰児を抱く揺りかごのように優しい闇の領域まで……」
この説明で具体的に想像出来る者なんて、魔物か魔族くらいのものだろう。
人間は光の中でしか生きられないと言われている。
闇に引きずられ、馴染んだりすれば、それはもう人間ではないそうだ。魔物の血も魔族の血も一滴も引かなくとも、彼らは人間の同胞に嫌われる。
だが、そういう部族はこの国の王が支配する大地の端々に隠れ住んでいるものだった。古くよりの神獣を崇め、隠れ里に呼ばれるような特殊な種族。その多くは人間の王を大して崇めもせず、かといって、その平穏を脅かすようなこともない。
だから、彼らは放置された。
揉め事が起きるとすれば、いつか人間の王が《光の領域》を広めるために闇と共に生きる部族の安息の地を手に入れようと行動しようと思った時くらいだろう。
「優しい闇の領域か……」
溜め息でも吐くようにニフはその言葉を反芻した。
今一度、彼女を振り返ってみれば、その目は何処か宙へと浮かび、物寂しげな横顔がふとした色気を湛えていた。人間の男であったならば、それだけで彼女に恋でもしてしまうかもしれない。
「私もいつかそういう所に行きたいな……」
返答を求めている声ではなかった。
この女には行き場がないのだ。吸血鬼に目を付けられてしまってから、その未来は閉ざされてしまった。慣れ親しんだ町にはもう帰る事も出来ない彼女にとって、安住など程遠くて手も届かないのだろう。
私はそっとニフに言った。
「安心しろ。この町はそういう場所でもある。神獣の末裔達はどいつもこいつも公平な目を持っているものだ。それに、《赤い花》の連れとなれば大事にされるよ」
「――そんなことを望んでいるわけじゃない」
私の言わんとしている事を読みとり、ニフがふと険しい表情を浮かべる。
傷ついてまだ満足に動かせない状況にも関わらず、私が止める間もなく彼女はその上体を起こした。
私が何か言う前に、ニフはその澄んだ双眸を私の目に向ける。
「カリス……」
仲間でも呼ぶような声で、彼女は言った。
「お願い。役目を終えてもアマリリスを殺さないで」
黙ったままの私に、ニフは訴える。
「恨み続けるのは仕方ないと思う。それだけクロはあなたにとって素晴らしい夫だったのなら。でも、でもね、カリス。アマリリスは私を助けてくれた。あれ以来、私はアマリリスの為に生きると心に決めた。そんな彼女を殺されたら、私はあなたを恨んでしまう」
意識せずとも、大きなため息が漏れていった。
そこへ、ニフは再び、あの言葉を放つのだ。
「私はあなたを恨みたくないんだ」
どう答えるべきか、自分の本当の気持ちが何なのか、よく分からなかった。