5.馴れ初め
「アマリリスを恨んだりはしないよ」
ひとしきりハノという吸血鬼の記憶を話し終えると、ニフは静かにそう付け加えた。
私の問いに時間差で答えてくれたのだろう。妙に律義な奴だ。そういう所は義理を重んじる人狼としても好感が持てるものだった。
ニフは力なく視線を落としつつ、こう付け加えた。
「今だってハノの事は嫌いになれない。優しかった姿が偽りだと言われても、実感出来ない。ハノに会いたいと思う事だってある。……でも、アマリリスは私を守ってくれた。それには、ああするしかなかったんだって……」
自分に言い聞かせるようにニフはそう言った。
「ハノは見た目だけじゃなくて、心も美しい男性だと本気で思っていた。だからこそ、彼が本当に吸血鬼だって知った時は頭の中が真っ白になったし、彼が目の前で死んでしまった時も、現実だと思いたくなかった」
「それでも、アマリリスの事は恨んでいない、と」
私の声にニフは静かに頷いた。
まるで、そうであると自分を信じ込ませているようだ。きっと彼女は彼女で言葉には出来ないほどの葛藤を孕んでいるのだろう。だって、アマリリスを恨みたいという気持ちがないのであれば、あんなにも苦しそうな表情を見せるだろうか。
自分を騙していた吸血鬼を憎めないでいる哀れな人間の女。
そんなニフの姿は、何故だか他人とも他種族とも思えないものだった。
「――カリスは」
ふと、ニフの子羊のような目が私を向いた。
「カリスは、どうなの? 今もアマリリスを憎んでいるんでしょう?」
「当り前だ」
そう返した言葉が情けなくも震えていた。
私からクロを奪った最悪の魔女アマリリス。美味そうな贄の気配に釣られてあんな村に立ち入らなければ、彼女とも鉢合わせせずに済んだと言うのに。
「今でもクロを返してほしいくらいだ……」
恐ろしく力の伴わない声が雫のように零れ落ちていった。
気を抜けば、もう戻って来ないクロの感触が私の心を抉っていく。忘れた方がいいのか、忘れてはいけないのか、それすらも分からず、ただただアマリリスを憎み、復讐をすることだけを考えなくてはやっていけなかった。
それなのに――。
「クロってどんな人だったの?」
静かに問われ、私は両目を閉じた。
ニフには背中を向けている。だから、気付いてやいないだろう。私の両目からはそのくらい静かにたった数滴の涙が零れ、音も立てずに頬を伝っていった。
嗚咽は漏らさなかった。漏らすことにもならなかった。
一呼吸置いてから、私は背後に居る変わり者の人間に応えてやった。
「人狼としても、異性としても、心から尊敬できる奴だった」
彼と共に歩んだ記憶が、人間共が必死に書いた本の頁でも捲るように巡っていく。沢山の思い出も、沢山の言葉も、沢山の感情も、全てが遠い昔のものだった。
――クロ。
野に生きていた両親がつけたというその単純な名を彼自身は気に入っていた。ただ「牙」を意味するだけのその名前。
野生的な狼の身体を誇りに思いつつ、両親とは違って人間の文化にも興味があったという彼と私が出会ったのも、人間の多く住む都会の外れでのことだった。
初めて会った時から、お互いの正体に気付いた。
それだけで恋に落ちるというわけではない。人狼の異性なんて別に珍しいわけでもないし、異性を見たからといって恋に落ちるほど簡単なものでもない。
それでも私の方は、彼を始めた見た瞬間、その逞しさに惚れそうになった。
「大好きだったんだね、彼の事」
ニフに言われ、私は静かに頷いた。
「愛していた。美しく逞しい、クロの事を……」
彼が名を名乗り、私が名を名乗ったのは何度か会って話をしてからの事だった。
普通の人間に混じって暮らしていながら、お互いにお互いの正体に気付き、たまたま会うことが重なり、何気なく話をするうちに意気投合してからのことだ。
クロ。その名前を聞いた瞬間、なんて美しい響きなのだろうと思った。
――カリスか……。
悲しくも遠い過去に聞いたクロの声が頭の中で甦る。
――君にぴったりな美しい名前だね。
独り呟くように言った彼に、私は更に惚れてしまった。
「夫婦となり、共に放浪するようになったのは二十代に差し掛かった頃だ。出会った頃の私はまだ親元にいたのだけれど、心に決めた人がいると紹介し、その後何度も生みの親に引き合わせてやっと許しを得たんだ」
「人狼って親の許しが無いと結婚出来ないの?」
背後からの子供のような純粋な問いかけに、私は視線もそらさずに答える。
「家庭によるだろうね。私の両親がそうであっただけかもしれない」
そう濁し、私はふとクロと両親の事を思い出した。
両親は初め、警戒した。
私がまだ十八にも満たなかったからだろうか。それか、そろそろ頃合いだろうと行かせる当てでもあったのかもしれない。
人狼として生まれた私だけれど、父も母も代々人間の住まう都会で暮らし、こっそりと人の命を奪ってきた一族なのだ。子の婚姻を慎重にせずにもしも正体がばれてしまうような事があれば、一族は根絶やしにされてしまう。
大人である両親はともかく、まだ幼かった弟妹を抱えていては危険過ぎる。
だからこそ、二人は慎重だったのだろう。
「だが、許しを得てからはそれっきりだ。それが人狼って奴さ。生みの親を後々訪ねる者なんてそんなに居ないらしい」
「そっか……意外とあっさりしているんだね」
ニフはそんな他意も含まないような感想を述べてから、そっと私を窺うように視線を向けてきた。子羊のようなその視線に、けれど、何故だか食指は動かない。
どうやら私はもう、この女を食べ物として見られないようだ。
自分の胸に浮かぶ情のようなものを抱えつつ、私はその目から視線を逸らした。