4.吸血鬼の花嫁
ニフの眠る寝台に、私は人間の姿のまま寄りかかった。
アマリリスは落ち込んでばかりだ。あの傍に居るのはきつい。ルーナを失ったあれは、かつての私のようで見たくないものだった。
だからと言って、影の中にずっと引っ込んでいるのも退屈だったのだ。
どうせなら誰かの傍に居たい。
これまでずっとゲネシスを見守り、関わってきたせいだろうか。いつの間にか私は、独りでずっといるなんて事が出来なくなっていた。
ニフに背を向けたまま、私はそっと訊ねてみた。
「吸血鬼――」
その単語を出した時、後ろでニフが微かに動く気配がした。
「ハノって名前だったかな」
「――そんな事も知っているの?」
「幾らか影で聞いていたからね」
そう答えると、ニフは納得したように口を噤んだ。その沈黙をしばし確認してから、私は続けて訊ねてみた。
「ハノってどんな男だったんだ?」
「なんでそんな事聞くのさ……」
だるそうな返答だった。
だが、遠慮する気にもならない。人間の都合なんてどうだっていい。話したくないだろうと察するなんて事をするつもりもなかった。
「退屈だからだよ。それに、吸血鬼に攫われそうになった花嫁の話なんて、滅多に聞けるものでもないからね」
そう言ってちらりと振り返ってみれば、ニフは何処か遠くを見ているようだった。
ああ、間違いない。この女はまだ未練があるのだ。相手が吸血鬼であり、自分を身代りにした挙句、魔女に助けられた後には暴力をもって連れ去ろうとまでした男への恋慕から完全に醒めることが出来ていない。
こんな関係、馬鹿馬鹿しい。
だからこいつらはいつまで経っても吸血鬼に敵うことが出来ないのだ。アマリリスが関わらなければ、ルーナが興味を持たなければ、この女は今頃、吸血鬼の子供をただ産まされていたか、その前に殺されていたことだろう。
逃げ出す事もせずに、愚かにも。
だが、あまり茶化す気にもならない。人狼にだって似たようなペアもいるのだ。暴力と悲鳴で成り立っているような関係から逃れず、人狼であるが為に共依存に陥っているような輩はいるのだ。男と女の組み合わせはともかく。
物思いに耽るニフに対して、私は更に問い詰めた。
「どんな奴だったんだ? お前を救うために奴を殺したアマリリスの事を憎んでいるか?」
「人狼の事の方が気になる。カリスの旦那さんはどんな人だったの?」
「うるさい。私が先に質問したんだ。お前から答えろ」
声を強めて言うと、ニフの澄んだ目がこちらを向いた。
そして、私の表情をしばし見つめると、やがて、苦い笑みを浮かべた。とても人間の女と向き合っているとは思えない。
何処までも変わった女だ。
「ハノは優しい人だった……」
観念してニフは語り始めた。
「私をお姫様のように扱ってくれてさ。見た目の美しさで惹かれていた私の心を掴んで放さなかった。だから、婚約が決まった時、本当に嬉しくて……幸せで……」
そう言って、ニフは胸をそっと抑えた。
きっと本人も気づいているのだろう。
彼女が知っていたハノという男の殆どは、美味しそうな人間の血を手に入れ、ついでに子を産ませる相手を捕える為の嘘で固められていたのだということを。
「花嫁になっていたら死んでいただろうって聞かされた。吸血鬼ってそんなに野蛮な人達なの? 処刑されそうだった時、ハノは私の事を見殺しにするつもりだったのかな……?」
泣きだしそうな声でニフは言った。
「――そういう事を考えると、今でも眠れなくなる時がある」
――泣いてもいい。
それは、そう言ってやりたくなるくらいの姿だった。
吸血鬼の気持ちなんて知らないし、凄く詳しいと言う訳でもない。吸血鬼が人狼との間で血が混ざる事は殆どないだろうし、あったとしても、伝承にでもなるくらいの希有な事だからだ。
けれど、吸血鬼と人間の血が混ざる事はよくある。それこそ、人狼と人間の血が混ざる程度にはよくあることらしい。だからこそ、吸血鬼の話は人間の文化によく溶け込んでいるものだった。
私もクロと共に人間に混じって、その伝承を幾つか知った事はある。
吸血鬼は年頃の人間の女に目をつけ、その中でも特に気に入った者を騙して婚姻を結び、程無くすれば円満に村や町から連れ出してしまう事があるらしい。
妻となった女は勿論、吸血鬼を信じてついていく。多くは彼の生まれ故郷に行くのだと聞かされるらしいのだが、そのまま行方知れずになってしまう。そうなってやっと、女の家族は、婿の正体を知るのだという。
だが、もう遅い。
どんなに恨もうとも、人間の女が返される事はない。連れ去られた花嫁の未来は全て運命の神の力に託されてしまう。もしも吸血鬼が心優しい者ならば、不自由であろうとも命だけは守られて囲われ続けるだろうし、そうでなければひっそりと死ぬだけだ。
噂では、連れ去られた女は妻ではなく奴隷となってしまうと聞いた。
吸血鬼の血を引く子を生み、一族に生き血を捧げる存在として夫とその家族に囚われてしまうのだと。だから、たとえ花嫁が不妊の女だったとしても、村から出して貰える事はあり得ないのだと。
しかし、実際がどうなっているかなんて、人間共には一生分からないはずだ。
人狼としてクロと共に世界を彷徨っていた私は、かつて、吸血鬼に分類される一族が隠れ住む村を見たことがある。
傍から見れば普通の村だった。でも、行き交う人の全ては吸血鬼の血を引く者。
人間を食おうと思って入ったというのに、とんだ当て外れだった。吸血鬼の肉なんて不味くて食えたものではないからだ。あっちはあっちで、迷い込んできたのが人間ではなく私達であったのを非常に残念がっていた。
それでも彼らは高貴な心を持つと自負しているようで、入りこんだ私達を棒でたたいて追いだすような事はしなかった。
その点だけは、認めてやろう。人狼よりも行儀がいいと。
村には女や子供が多かった。村の者に聞くところに寄れば、生まれた女の多くは村に留まるが、男の一部は度々村を出て人間の花嫁を連れてくるらしい。そうして新たな血を広げていくのだと。
吸血鬼が不老不死であるという噂は単なる人間の思い込みにしかすぎず、その村にいた者たちもまた人狼のように年を取り、滅んでいく。その為に、新たな血が必要なのだと。
だから、どの時代も必ず、その村には人間の女が隠れているのだと。
そう言われているわりに、純血の人間を見る事はなかった。もしかしたら、人間を喰い物としか見てない私達を恐れて表に出さなかっただけなのかもしれないが、そもそも家から出して貰えないものなのかもしれない。
ただ、たとえ、花嫁が吸血鬼との生活で耐えられずに死んだとしても、遺された赤子は村の女たちに大切に育てられるのだから問題ないのだと主張する人外どもの姿は忘れられなかった。
目の前で亡き男を思い続けるニフテリザ。彼女もまた、そんな未来が約束されてしまっていたのだ。もしあの吸血鬼もあの村の者ならば、処刑されるか否かの所でニフを攫い、そのまま故郷に帰ろうと思っていたのかもしれない。
そう考えれば、アマリリスはニフにとって恩人に他ならない。その事に関しては、彼女もまた、よく分かっているのだろう。
ともあれ、この人間の女との会話はどうやら私にとって思っていたよりもずっと面白い暇潰しになりそうだった。
そんな事を思いながら、私は寝台の感触を背中で味わい、ニフの吐息を感じた。かつて食い物にしか思えなかったその女の生きている感触を確認すると、何故だか妙に安心する事が出来た。
それは私にとっても、不思議な感覚だった。