3.心の変化
退屈な時間を過ごしていた。
どうやらニフテリザ――アマリリスがニフと呼ぶあの人間の女が回復するまでは、アマリリスも出て行かない事になっているらしい。それならば今すぐに出発するのが叶わない事くらいは分かっていたが、まだ発たなくてもいいのかという焦燥感が私を苛んでいる。
でも、早く出発して愚かな《赤い花》が役目を終えてしまえばいいと思っているわけではない。どんなに時間が経っても、どんなに人々の嘆きが見えても、私はやはりゲネシスの死を見たいわけではなかった。
だから、アマリリスがどんなにルーナの死に囚われていたとしても、急かす気にもならなかったし、ニフの事を疎ましく思うような事も無かった。
私は時折ニフの容体を影より窺った。
恐らく、治療に当たっていた竜族達は私の訪れにも気付いていただろう。けれど、気の聡い彼らには私の敵意が無い事くらい分かりきっていたようで、追い払われることもなければ、話しかけられる事さえなかった。
当初、ニフはとても苦しそうだったが、医者の的確な治療の前には回復するほどのものであったらしい。彼女に傷を負わせたのもゲネシスだ。
――無力な女を襲ったのか……。
かつて彼にそんな事を言われたのをふと思い出す。
あの時、私は心の底より笑い飛ばしたのだ。愚かで単純な人間らしい矛盾を孕んだいい分がおかしくて堪らなかったのだ。
――あの頃が懐かしい。
夜中、竜族さえも付き添っていない部屋の中で、そっと影より身を乗り出して、私は傷を癒す事に必死なその人間の女の頬に触れてみた。
以前は人間等食べることしか考えていなかった。
ゲネシスだけが特別であって、このニフテリザとかいう女に関しては、いつまで経っても食糧にしか見えていなかった。
けれど、どうだろう。
こうして触れていても、不思議と食欲はわかない。
「――アマリリス……?」
眠っていると思っていたが、ニフの唇からは掠れた声が漏れだした。
目は開かず、両方の瞼が震えている。身体はまだしんどいのだろう。だが、良くなってきたのは確かなようだ。
それを確認してから、私はそっと息を漏らした。
「違うよ。私だ」
声をかけると、その目が一気に開いた。眠気が飛んだらしい。
私に触れられている事に気付くと、途端にニフの身体は小刻みに震え始めた。動く事も出来ないまま、影の中で綺麗に輝く眼を私に向けている。
その反応は本来、人狼の心をくすぐるものだ。
追い詰めた獲物が怯えれば怯えるほど、我々の心は燃え上がる。ルーナを初めて見つけた時だってそうだった。クロを失った恨みと絶望の全てを欲望に変えて、気が済むまで滅茶苦茶にしてやろうと思えたのも、あのルーナという娘が私を見ていい反応を見せてくれたからだ。
そのくらい、人狼というものは節操がない。
自分でも分かる。これは野蛮なのだと。だとしても、変に気取って正直でないほうが恰好も悪いと本気で思っていた。欲に忠実になり、人狼の己を素直に認めることこそ尊厳に繋がるのだと殆どの同胞が思っていることだろう。
私もクロもそうだった。
だが、そうであっても、今の私にとってニフはご馳走でも何でもなかった。
「傷はどうだ。痛むのか?」
私が訊ねると、やや時間を置いてニフの震えが止まった。
その目に宿っていた恐怖の色が次第に治まり、段々と驚愕のようなものが浮かび上がってきた。だが、それも一瞬の事で、彼女は素直に返答をくれた。
「だいぶ良くなった……」
そう言って、ニフは何故だか、気まずそうな様子で私から目を逸らしたのだ。
「怖がって御免。私を見つけてくれたのはカリスだって聞いていたのに……」
その姿に今度は私の方が困惑してしまった。
こんな事、人間に言われた事がない。
「謝るな、人間。むしろ、人間に恐れられない方が腹立たしい。そんな事だから、吸血鬼に騙され、同胞からはぶられることになるんだ」
しかし、同時に、この女は人食い鬼達の同情を誘って見せた。
これはある意味、生まれ持っての魔性なのだろう。ニフという女を知れば知るほど、人間に対する固定概念のある者は惹かれていく。だからこそ、吸血鬼はこの女を妻にしようと選んだのかもしれない。
「耳が痛いな……」
苦く笑いながらニフはそう言って身を起こそうとした。透かさず私はそれを睨みつけ、片手で軽く押えた。
「起きるな。そのままでいろ」
命令口調にニフの目が困惑の色を見せる。
「早く身体を治さないと、アマリリスについていけなくなる……」
ついて行く気だったのか。
そういえば、この町に置いて行けと言ったのはリンを始めとした竜族だけで、その頃はまだニフも意識が曖昧だった。では、まだ誰にも教えられていないのだろう。
勿論、私も教える気にはならない。面倒臭そうだからだ。
「ルーナの分までついていてあげないといけないんだ」
「別にお前など必要ない。あの女には私が付くからね」
そうとだけ言ってやると、ニフの目が険しいものに変化した。
「カリス。あなたはまだアマリリスの命を奪う気なの?」
「ああ、そうだよ。奴が罪人……を裁いた後は、約束通り、あの身体を捧げてもらう。香りが良くて美味だっていう《赤い花》の実物を見てみたいしね」
そうからかってやると、面白いくらいにニフは眉をひそめた。
「そんな事は絶対にさせない……」
「馬鹿な奴だ。私と魔女の約束を阻めるほどお前は強いのか?」
「強くはないよ。むしろ、私なんて足手まといでしかないだろうね……でも、だからって何もせずに、アマリリスを失うのは嫌だ。それに――」
ニフは声を震わせ、呟くように言った。
「――私はあなたを恨みたくないんだ」
その言葉が静かに私の心を貫いた。
それは、思ってもみなかった言葉だった。人間から受ける言葉なんて、罵詈雑言でしかないとばかり思っていた。ゲネシスだって、私の正体を見破ってから暫くは蔑むような目で見ていたと言うのに。
――恐ろしい。
この女の魔性が、恐ろしくて仕方なかった。
「人間のくせに変わった奴だ」
どうにかその言葉だけが、困惑しきった私の口より漏れだしていった。