1.罪人の話
現実味がないとはこのことだろう。
人狼として生を受け、あらゆる妖力を駆使して力のない人間共を惑わし、喰らい、たった一人の憎き存在を呪いながら生きてきた時の方が、まだ私は楽だった。
クロ。今は亡き愛すべき夫。
その亡骸にすら、私は寄り添えなかった。縋りつきたい気持ちを必死に抑えて、私は隠れている事しか出来なかったのだ。
アマリリスという魔女がそれだけ怖かった。
彼女に見つからないように気配を殺している事しか出来なかった。
見つかれば私もクロのようにされるだろう。もしかしたらそれは、愛する伴侶の後を追う人狼として求められるような心中の姿なのかもしれないが、生憎、その光景に美を見出すような価値観は、私にもなければ生前のクロにもなかった。
私もクロもお互いによく言い合った。もしも二人のどちらかが殺されそうになった場合、相手が敵わぬ力を有していた時は逃げてくれと。
――私よりも長く生きろと。
ああ、でもきっと、クロは私を見捨てたりはしなかっただろう。そういう男だった。頭に血が上れば、そして、感情が高ぶれば、自分の力など簡単に見誤って、私と共に死を選ぶような男だった。
けれど、私はそうはなれなかった。
あの時すぐに躍り出て、クロと共にアマリリスに殺されればよかったのかもしれない。けれど、私にはそれが出来なかった。
クロが死んだ瞬間、私の中で世界の全てが色を失い、灰色になった。
色を取り戻すのはどうしたらいい。
答えは只一つ。
この私がアマリリスを殺すしかない。
それも、ただ単に殺すのではない。クロの味わった苦痛以上のものをあの女の澄まし顔にぶつけ、命尽きるまで恥辱の限りを尽くしてやろう。
ただ腹を満たすだけで満ち足りるわけがない。
だから、私はずっとアマリリスに追われ、追い続け、彼女をいかに苦しめるかを考えては機会を窺い続けてきたのだ。
それなのに、世界というものはあまりに不公平だった。
人狼殺しのあの魔女の心臓が《赤い花》であったが為に、まともな人狼として生きる私には手を出せない存在へとなってしまったのだから。
――アマリリス。
彼女に《赤い花》を継がせ、そのついでに魔女の性として人狼殺しの欲望を与えた神を私は恨む。
そして、何よりも、彼女を輿入れ前の海巫女に引き合わせた運命を恨んでいる。
ああ、クロ。お前は見ているだろうか。
魔女の性から解放された彼女は、普通の女に成り果ててしまった。かつて血眼になってお前や私の命を狙ってきた時とは全く違う。僕の死を悼み、ついでに私の身までも案じるような魔女とも言えない存在になってしまった。
竜族の娘リンより巫女の鏡を受け取るアマリリスを見ながら、私は心の奥で込み上げてくる虚しさを静かに殺していた。
アマリリス。
夫の仇であるはずの彼女の影に入り、もう何度、彼女を助けてきたのか分からない。そして、どのくらい言葉を交わし、意思の疎通をはかっただろうか。
巫女にもたらされた役目のせいで魔女である事を忘れるアマリリスは、憎らしいほどに普通の女に化していた。
私を見ても殺そうともせず、自分の性を厭うくらいにまともになっている。
そんな彼女の姿を見ているだけで苦しかったし、理不尽だと思った。アマリリスには永遠にずっと狼を殺す凶悪な女でいて欲しかった。そうだったら、私はずっとずっとこの女を恨み続け、クロを失った悲しみを誤魔化す事が出来たはずなのに。
いまやもう別人のようだ。
私はきっと本当の意味で仇を失っている。
仲間の死を悼み、仲間の負傷を気にかけ、関わった全ての責任を担っていく決心をした赤い魔女は、じっと私の語る言葉に耳を傾け、その内容を少しずつ呑んでいった。
――ゲネシス。
哀れなあの男は何処へ行ったのだろう。
一生の伴侶は今だってクロに変わりないけれど、私はあの人間の青年の事が気になって仕方なかった。
悪魔に騙された可哀そうな男。無力な娘を殺し、同胞の女を傷つけ、アマリリスの怒りを買った愚かで凶悪な悪魔の手先。
「――これが、私の知っている限りの事だ」
リンの生家、その一室で、私は静かにアマリリスに語っていた。
こうしていると、この女がかつて私の命を貪ろうと必死になって追いかけてきていた事なんてすっかり忘れてしまう。
そのくらい、落ち着いた状態で、アマリリスは私と目を合わせる事が出来る。
それもこれも皆、巫女のお陰だ。巫女と神獣を救うと約束した以上、アマリリスは魔女である事を忘れ続け、人狼殺しの性も忘れ続けるのだろう。
「彼は――」
そう言いかけ、アマリリスはそのまま言葉を濁らせた。
悲しげなその表情は誰に対するものだろう。今の彼女の脳裏に占めているのは、あの美味そうな魔物の娘ルーナの事ばかりであることだろう。
それでも、憎らしくも華やかな魅力を湛えた横顔で、アマリリスは小声で繋げた。
「不幸な人だったのね……グリフォスに騙されてしまうくらい……」
心より愛していただろう僕の仇をどうにか憐れむように言った後、傷一つない両手で彼女は顔を覆った。
「ああ、でも、やっぱり……やっぱり許せない。あの子を……ルーナを私の目の前で殺してしまったあの男の事を……どうしても許せない……!」
「ああ、そうだろうさ」
私は泣きじゃくる子供のような赤い魔女に言い放った。
「私だってお前を許したくない。永久の愛を誓ったクロを奪ったお前を許したくない」
唸りを伴いながらそう言ってやると、アマリリスは指の隙間からそっと私の姿を覗いてきた。その仕草は子羊か何かのようで、無性に傷つけたくなるものだ。だが、その込み上げてくる感情を抑えつつ、深く息を吐くと、アマリリスは再び口を開いた。
「――カリス」
歪んだ声ではあるが、それでもどうにか強さは保っている。
だが、この女がアマリリスであるなんて、他の人狼が知ったら驚くだろう。こいつを恐れて引きこもっていた臆病者も外に出てくるかもしれない。
そのくらい、儚げな姿だった。
「あなたは内心喜んでいるでしょうね。ずっと私からルーナを奪おうとしていたもの。わたしがあなたと同じような目に遭って、あなたは満足かしら……?」
きっと皮肉を交えてはいたのだろう。けれど、とても不思議な事に、全く不快にならないレベルのものだった。
それは声の調子があまりきついものではなかったからかもしれない。
ともかく、私は冷静のままでアマリリスを見つめ返す事が出来た。
「別に嬉しくもならないな」
失笑と共にその言葉は出た。