7.最期の獲物
私が接近するぎりぎりまでキュベレーは動かなかった。
その美しい眼が見つめているのは、私の手に握られた呪いの剣。
元が魔女狩りの剣である以上、どんなに長い時を生きてきた魔女であっても掠り傷一つで即死してしまう。
恐れているのか、いないのか。
分からないまま私は飛び掛かった。
各地域の村で育った贄の力が、グリフォスより受け取った力と重なり、さらに、私が壊してきた三獣の力とも交わって、どうしようもないほど大きく、罪深く、理不尽な暴力へと変化していく。
一人の魔女を捕えるにはあまりにも大きな力。
けれど、キュベレーは一撃では殺されてくれなかった。
冷静に碧の目を光らせると、息を吐くように魔術を放ち、私の目の前から消えてしまったのだ。
誰もいない王座を、呪われた剣が虚しく斬りつける。
私はすぐさま振り返り、キュベレーの姿を探した。
ミールの姿をした石の人形が傍でじっと私を見ている。ただの人形であると断言するにはあまりにも生々しいその視線を何とか掻い潜り、私は王座から離れた。
グリフォスはじっと立ったまま、私とキュベレーの戦いを見つめていた。
ジズ、ベヒモス、そしてリヴァイアサンを仕留めた時と同じ。違うと言えば、戦っている相手がその三者と比べるにはあまりにも小物であるという所だろう。
そんな小物の魔女さえも、ただの人間であった私には大きすぎる存在だった。
だから、グリフォスと手を組んで、ずっと平穏を紡いできたという世の中を変える程の罪を犯さなくてはならなかったのだ。
キュベレーは姿を消したまま部屋の何処かに潜んでいる。
その気配を一つ一つ手に取るように探りながら、私は王座の前で剣を掲げた。
三獣と戦った時と同じだ。彼らの人知を超えた力でさえも、この血に呪われた剣は暴いてみせたのだ。
ただの魔女を見つけ出す事なんて、簡単な事だった。
魔術は一夜の夢のように消え去り、部屋の隅で機会を窺う幼い魔女の姿が顕わになる。魔術を払われる事はいち早く気づいたらしく、もう既に私を注意深く睨みながら次なる手を討とうとしている所だった。
相手は魔術。
距離を取って戦えるという点では、私よりも有利かもしれない。けれど、そんな不利に甘えるほど私は弱くない。
どんな魔術であっても、それを避け、キュベレーを捕えられる自信はあった。
私とグリフォスを前にして、キュベレーが逃げられるわけがない。
万が一、キュベレーがグリフォスに接近すれば、その力は吸い取られるだろう。無力と化し、ただの人間の女と変わらない存在と成り果てたとしても、私は容赦したりしない。
抵抗出来ない幼い姿の魔女をミールの傍に引きたてて、目の前で捌くだけだ。
むしろ、その方が簡単だ。
乱闘で石となったミールを巻き込んでしまう心配もない。
「――ゲネシス」
ふとキュベレーが私の名を呟いた。
「いい名前ね」
不敵な笑みを浮かべ、キュベレーは風を払うように魔術を解き放つ。
複数の炎が私の身を焼き焦がさんと揺らめき襲いかかってきて、必死にそれを避けた。グリフォスがやや遅れて残り火を消す。けれど、その頃にはもうキュベレーは次なる魔術を放っていた。
蝙蝠の姿をした風が走る私の行く手を阻み、今度は肉体を斬り裂こうと狙う。その一体一体を剣の生贄にしている内に、グリフォスが再び何かをかき消した。蝙蝠に翻弄される私を狙ってキュベレーが雷を放ったらしい。
大した抵抗だ。
あらゆる魔術を休みなく放ち、グリフォスの守護さえも掻い潜ろうとしている。そこには全くと言っていいほど諦めがなく、最愛の友を亡くしたこの生き飽きたであろう世界にあっても死を免れようとしている。
面白いほどに自分勝手だ。
そこだけは好感の持てる魔女だった。
やがて、蝙蝠は全滅し、私の視界は晴れた。次なる魔術をキュベレーが放つが、その殆どをグリフォスが消してしまった。
キュベレーの顔に焦りが浮かぶ。
その顔こそ、私の勝機に違いなかった。
剣を握りしめ、その喉元に白い刃を突きつけると、それっきりキュベレーの動きは止められてしまった。
「――動くな」
猛獣のような声で命令を下し、私はキュベレーを捕まえた。
「魔術の一つでも放てば、今すぐに最も痛みを感じる方法で殺す」
即死であるといっても、その効果には時間差があるものだ。
キュベレーの顔に汗が浮かぶ。その汗すら、私が少しでも剣を持つ手を動かしただけで、止まってしまうのだ。
生温かいキュベレーの身体より、鼓動が伝わってくる。
この身体の中にミールの呪いを解く全てが詰まっている。
落ち着くだけでも精一杯だった。
「……動いたって、どうせ殺すんでしょう」
震えた声でキュベレーが言う。
かつて、この魔女に私は懇願した。
行かないでくれ、返してくれと懇願した。
遠い昔の話だ。あの時の魔女の背中は、どんなに手を伸ばしても届かないほど不確かなもので、ただただ自分の無力さを呪うことしか許されてはいなかったのだ。
グリフォスでさえただでは暴けなかった魔術。
霞のようにその存在を隠して生き延びてきたこの魔女が、今は確かに私の手の中にいる。
「来るんだ」
剣を突きつけたまま、私はキュベレーを歩かせた。
向かうは王座の傍に佇むミールのもと。
その醜い性の犠牲となった哀れで美しい少年人形の元へ行く間、覚悟を決めたかのようにキュベレーは口を結んだ。