5.偽りの女王
古ぼけた王座に座る幼い姿の魔女。
傍に控えているのは時を止めたまま動かない哀れで美しい少年の人形。
その光景が目に飛び込んできた瞬間、私は剣を握りしめたまま思わず走り出しそうになり、必死に堪えた。
まるで女王にでもなったかのように座る魔女の目が怪しげに光っていたからだ。
私の傍ではグリフォスが涼しげな顔で、幼い姿のキュベレーをじっと見つめていた。
沈黙が流れ、妙な緊張感が生じる。
だが、糸を切断するように口を開いたのは、王座に座ったまま頬杖をついて、呆れたような、諦めたような表情で私を見ているキュベレーだった。
「――ふうん」
空虚な溜め息の後、彼女は薄っすらと中身のない笑みを浮かべる。
「これが、長く生き過ぎたわたしの終わり方なんだ」
そう言って、キュベレーは可笑しそうに一人で目を細める。
私は何も言わなかった。何も言わず、ただじっとキュベレーに油断が生まれるのを待っていた。一見すれば諦めているように見えるキュベレーだが、黙って斬られてくれるほどには死への恐怖が麻痺しているわけでもないらしい。
そんな私の事は無視して、キュベレーはじっとグリフォスへと視線を向けた。
「あなたが死人の姿を借りてこの男を誑かしたことも、この男に罪をなすりつけて力を存分に与えたことも、全部見ていたわ」
エメラルドのような目を細めながら、キュベレーは語る。
その姿はまるで古代の女神にでもなったかのように美しい。けれど、その美しさに見惚れたりはしない。この女に対する憎悪が溢れ出るせいで、どんなに美しく整っていたとしても、内面の醜さが全てを台無しにする。
私から見たキュベレーは、そのくらい憎い存在だった。
「まさかこの男が、わたしを殺す程度の理由で悪魔と手を組むなんて思わなかった」
淡々と彼女は言った。
そして、迷うことなくその小さな手を傍らのミールへと伸ばし、睫毛すら動かないその顔をそっと撫でてみせた。
「そんなにもこの子が大事だったのね」
目を細める姿は余裕があるようにも、また、逆に全く余裕がなく諦めているようにも見えた。
「己の平凡な未来をわざわざ自らの手で潰してまで、わたしからミールを取り戻したかったのね」
震えた声でそう言ったキュベレーのその碧の両目から、零れるように涙は流れ落ちた。
「わたしも――」
キュベレーは一人、呟く。
「わたしも、ナキに会いたい……」
溜め息と共にキュベレーが俯く。
だが、それでも、私はまだ近づけなかった。その手がミールから離れていないからだ。目を逸らしていても、禍々しい魔女の力の気配が私の肌を突き刺してくる。
もどかしい。
けれど、下手に歩んで状況を悪くしてはいけない。
「会いたいのなら、下手な抵抗なんてせず、ゲネシスに楽にしてもらいなさいな」
ためらうことなく泣き続けるキュベレーに対して、グリフォスがその涙を拭うかのように優しげな声で語りかけた。
魔女とは毛色の違う怪しげな力を含んだその声を受け、キュベレーが目を覚ますように顔を上げた。涙で汚れたその顔に浮かぶのは、怒りでも、敵意でもなく、ただの恐れと哀しみだけに見えた。
それでも、この魔女を憐れむ事なんて出来ない。
ミールが囚われている以上、そして、ミールにかけられた呪いを解きたい以上、この孤独な魔女に慈悲をかけるつもりは一切なかった。
「死霊の女。死んだ者と心を通わせ、この世に現れて悪魔として自由に振る舞うあなたには、わたしの気持ちなんて分からないでしょうね」
グリフォスに向かって、キュベレーは言った。
「ナキを失って、ナキと一緒に過ごした時間がどんどん遠ざかっていくわたしの気持ちなんて分からないのでしょうね」
そうね、とグリフォスは答えた。
「確かに分からないわね。そんなに寂しいのなら、殺されてあげればいいじゃない。もしも、あなたがどうしてもと私に願うのならば、死んだ後で私が愛するお友達に引き合わせてあげてもいいのよ」
「――いいえ」
キュベレーはきっぱりと断り、その眼差しを鋭いものへと変えた。
「仮にも長生きした身だもの。悪魔の手になんか落ちたくない。大好きなあの子を巻き込んで、あなたの手駒になって、永遠に罪に苛まれるなんて御免だわ」
そう言い放ち、王座に肘を置くその姿は、まさに女王のようだった。
憎らしくも威厳を感じずにはいられない姿。私に斬り殺されるだけだと思ってはいても、その尊さを認めない頑なさは私にはなかった。
だが、それでも、私にもキュベレーの気持ちは分からなかった。
騙されたから何だと言うのだろう。罪だから何だと言うのだろう。
死後の幸せを約束する言葉を跳ね除けなくてはならないほど、この世界の則というものは大事なものなのだろうか。
グリフォスに従い、希い、私の持つ剣で大して苦しまずに死んでしまえば、私が奪ってしまったナキとかいう少女とまた会える事を約束されるというのに、罪に苛まれるからという理由だけでその未来を諦める気持ちが分からない。
ああ、そうだ。
分からないからこそ、私は罪人となったのだ。
ジズも、ベヒモスも、リヴァイアサンも、手に入れる事となったのだ。
その違いはとてつもなく大きい。
「馬鹿ね。そのくらい、大した罪じゃないわ。怖がらなくてもいいの。苦しいのは一瞬だけ。その後は、今では想像も出来ないほど幸せな夢を見せてあげる。他でもない私が、あなたの死後を守ってあげる。だから――」
グリフォスは静かに誘う。
「今すぐに、ゲネシスへその身体を差出しなさい」
けれど、キュベレーは口を噤んだまま頷きはしなかった。
王座に座ったまま、冷たい目で私とグリフォスを見つめている。
しばし、耳が痛いほどの沈黙が流れ、キュベレーの意思が変わらないのを感じ取ると、やがてグリフォスが口を開いた。
「長く生き過ぎた魔女のプライドというものも、中々面倒臭いものなのね」
嘲笑うかのようにグリフォスはそう言うと、じっとキュベレーの表情を見つめた。
キュベレーの表情は変わらない。ただ、変わらないというよりもは、変えないように本人が努力しているようだった。
間違いなく、動揺している。
かつて、グリフォスに手を差し伸べられた私のように。
「キュベレー」
親しげにその名を謳い、グリフォスは言う。
「死んだお友達の魂が今どうしているか、教えてあげようか」
残酷に光るその青い目が、動揺を隠せないエメラルドの目を捉えていた。