4.生き人形
淀んだ空気が私を追い返そうとする。
けれど、その不快な感覚に耐えながら広間へと足を踏み入れると、今度は抗えきれないほどの情動が生まれた。あらゆる者を殺して来ても起こらなかった感情の波が、今になって押し寄せてきたようだ。
部屋にあったのは子供の姿をした沢山の人形。
だが、それはただの人形ではない。
その全てが本物の生きた子供達の時を止め、動かぬ石へと変えたものだった。
瞬時に私は部屋を見渡した。頭を過ぎるのはミールの姿。人形へと変えられるあの恐ろしい光景だった。
けれど、どういうわけかミールらしき人形は何処にも見当たらなかった。
「ここにいるのは全て、古ぼけた時代より取り残された子達ばかりのようね」
グリフォスに言われて、私は初めて気付いた。
人形と化した子供達の服は、確かに今の時代には珍しい服ばかりだった。そして、その内の数名は一目で分かるほど高貴な服を着せられ、時を止めた顔もまた、子供ながらに血の気が引いてしまうほどの美しさを秘めていた。
何となく、ただ何となく、私は彼らの正体を察した。
残酷な魔術の犠牲となっているこの子供達はひょっとしたら、この城が正常に使われていた頃の子供達なのかもしれない。
死んだとされた城の後継者も中にはいるかもしれない。
この場に閉じ込められ、美しい妖精のような姿のままで時を止めた少年少女の姿は、紛れもなくキュベレーの性による犠牲者だ。
長すぎる時を生き延び、退屈しのぎに集めた財産なのだろう。
その中に、ミールはいるはずなのだ。
ふと、グリフォスが立ち止まり、じっと行く手を見つめた。
「ミールの気配を今、確かに感じたわ」
「何処に――」
その言葉に焦りが生じた。
石になってもなお、しっかりと握っていた手から露のように消えてしまったあの日以来、私はミールの幻影に悩まされ続けた。
眠れば甦るのは幸せな時代か、絶望の瞬間のどちらか。
特に、グリフォスによってやがて取り戻せるだろうと約束されたミールの幻影は、これまでもずっと私の意識を打ち壊しかねないほどに揺るがしてきた。
町で見かける同じ年頃の少年。仲のよさげな父子や兄弟。それらを目にする度に、私の頭の中ではミールの声が木霊するのだ。
そのミールが――。
「キュベレーの傍よ。あなたを恐れ、最期の足掻きにと自分の傍に置いたようね」
「――何を企んでいるんだ」
焦りは大きくなった。
私への抗いにミールを利用する。
取引の道具に使われるにしても、復讐の象徴に使われるにしても、心より愛した女と同じ血を分けた義弟がそんな扱いを受ける等、絶対に許せなかった。
怒りに身を震わせる私を振り返り、グリフォスもまた眉をひそめた。
「動揺しては駄目」
冷徹にも彼女は私を諭す。
「あなたを動揺させるつもりかもしれないじゃない。心配せずとも、彼女は自分のお人形を粗末にすることなんて出来ないの」
「ならばどうして……」
思わず問いかけると、グリフォスの目が青く光る。
「言ったでしょう。あなたを動揺させるつもりかもしれないって」
私は押し黙った。
青く光る目は、死んだサファイアの目をしているのにも関わらず、その時だけは全く違う存在の魂を感じたからだ。
愛するサファイアは死んだのだ。
魂は死地へと赴き、滅んだ肉体だけが再びグリフォスに拾われ甦った。
婚礼という人生の晴れの日を前に死ななくてはならなかった辛さのためか、それほどまでにこの無力な男を恋しがってくれての事なのか。
グリフォスをサファイアと重ねてはいけない。
それは何度も自分に言い聞かせてきた事ではあった。
間違いなくサファイアの身体を借りているのだとしても、その魂や意識がサファイアのものではない限り、彼女はサファイアではない。
私が愛した女が甦ったわけでもなければ、その彼女が己の弟を救ってほしいと頼んできたわけでもない。
そんな事は分かっている。
分かっているが、どうしようもなかった。
私には、このグリフォスの眼差しが辛くて仕方なかった。
そんな私を見てか、グリフォスの表情がやや変化した。
「ゲネシス……」
憐れむようなその声は、今となっては耐えがたいほど昔に耳にしたサファイアの声と全く同じものだった。
「焦っては駄目。どんなに有利な状況でも、一つ間違えれば不利だって生み出してしまう。あなたはそんな愚かな罠を踏んではいけないわ」
ゲネシス、とグリフォスは念を押すように私の名を再び口ずさむ。
「この私の顔を見て」
サファイアの姿で――。
「この女の望みを叶えるのよ。血を分けた愛しい弟と、他ならぬあなたが穏やかに暮らせる未来こそ、この女と私を繋いだ強い思念だったのだから」
グリフォスは私に語る。
ああ、そんな事を言われて、反抗など出来るものだろうか。
既に生じかけていた動揺の全てはあっさりと治まった。キュベレーがどんなつもりであろうと、グリフォスを味方につけた私には敵う訳がないのだから。
生き人形の飾られた部屋を抜けながら、私は静かにグリフォスの後に続いた。
向かうはもう一つの扉。
さほど重くもなさそうなその扉の前に立ち、グリフォスが囁くように言った。
「この先ね」
感極まったようなサファイアの声で、彼女は私に言った。
「ミールがいるわ」
その瞬間、扉は開け放たれた。