2.霧の城
グリフォスの導きで、私はあの場所に辿り着いていた。
傍から見れば何もない。ただの森の道だ。自然が溢れ、残酷さを必死に鮮やかな色合いで隠している幽鬼のような世界。
どんなに見た目が綺麗であろうと、私にとっては恨みの募った場所でしかない。
あの日、ミールが連れて行かれた日、霧の向こうに城はあった。魔女一人が住むには大きすぎる城は、霧なんて存在しない今であっても何処にあるのかすら分からない。
考えるまでもなく、キュベレーの魔術のせいだ。もしもグリフォスの協力がなければ、私はキュベレーの元に辿り着く事すら出来ないのだ。
グリフォスが一方を指差して囁いた。
「――あの場所」
そこには木々と土と岩と朽ちた生き物の身体以外は何もないように見える。
けれど、グリフォスはその一点から目を離さずに告げるのだ。
「あの場所にキュベレーの住まうお城があるわ」
その時だった。
グリフォスの指差した先で水の輪が広がるかのような揺らめきが起こり、今までの情景が変化を見せ始めたのだ。
私は固唾を飲んで見守った。
視線の先で、無力な私の前で露のように弾けてしまったあの残酷な城の姿が火に炙られるかのように浮かび上がってくる。
深い霧が生まれ、露出した城の姿を隠そうと抵抗する。
だが、その不可思議な霧の力よりもグリフォスの暴く力の方が勝っていた。
――あの場所に……。
感嘆のため息が漏れ、血と肉を存分に喰らってきたであろう剣を持つこの手が、かなり小刻みに震えている。
グリフォスがそっと手を下ろした頃には、霧も抵抗をやめており、諦めたように城の周りをただ霞ませるのみだった。
そんな様子を見て、グリフォスはくすりと笑った。
「震えているのが分かるわ。偉大な魔女があなたの姿を見て怯えている」
――私の姿を?
浮かんだ疑問は言葉にはならなかった。
私は黙ったままグリフォスの横顔を窺った。見れば見るほど訪れるはずだった未来を想像させてしまう顔立ちは、私に視線を返さずに城を向いたまま。
どうして、キュベレーが私を怯えている等と言うのだろう。
恐ろしいのはグリフォスの方だ。
サファイアの姿を借りて私の前に現れた彼女。
諦めたはずの可能性をちらつかせ、私の良心を強く揺さ振り壊してしまった悪魔。或いは、私が心の闇の中で強く願っていた安息の未来を叶えてくれるのだと約束した、私だけの救いの神。
いずれにしても、恐ろしい。
死霊という幻影を常に纏っているこの存在は恐ろしい。
「今のあなたならば、キュベレーにだって勝てる」
微笑みながらグリフォスは言った。
「そして、今のわたしにならば、あなたを勝たせることが出来る」
強い自信を伴った断言。
その言葉は私の背中を押し、徐々に霧の城へと歩ませる。
かつて、ミールを奪い去った魔女と共に消えたあの城。
殺意を胸に接近する私の姿を受けても、今度は消える気配も見せない。恐らくは、グリフォスを前にして消えることも叶わないのだろう。
お陰で私はまじまじと城の姿を目に焼きつけながら歩むことが出来た。
幻惑で人間を騙そうとする意地の悪いこの城も、怒りに満ち、もはや人間でもなくなった私が相手では成す術もない。
ここに来るために罪を犯したのだ。
この場所を突き止めるために沢山の命を奪ってきた。
全て、あの城を不当に支配する悪しき魔女のせいだ。あの魔女さえいなければ、こんな事にはならなかっただろう。
だから私に殺された死霊共よ。
恨むなら、キュベレーを恨むがいい。
呪詛を込めながら私は走り出した。
手に持つ剣が私の怒りと憎しみに同調して疼きだした。その葛藤がそのまま私の心身を揺さ振り、頭に強い観念を植え付ける。
血が欲しい。肉が欲しい。
かつて私がこの目で見てきたあらゆる赤をすぐに飲み干してしまいたい。
その欲望をぶつけるべき相手はただ一人。
ジズでもない。ベヒモスでもない。リヴァイアサンでもない。
キュベレーという卑怯な魔女だけだ。
「汚らわしい魔女め」
私は走り、霧に向かって吠える。
「すぐにその臓物を引っ張り出してやる」
その声が木霊し、野太い獣の咆哮のように震えていた。
ああ、まるで、魔物にでもなってしまったかのようだ。
霧に混じって降り出した白い塵を掻い潜りながら走る私は、純朴な同胞にとってみれば魔物に他ならないだろう。
ひょっとすれば魔物だって私を同胞と見間違えるかもしれない。
そのくらい、今の私は人間から離れてしまっていた。
ごく普通の人間の男であったかつての私が心より侮蔑した魔物という存在。私を育ててきた全ての大人たちが汚物よりも穢れた存在として認識していた魔物。
そんな存在に成り果てても尚、私は信じ続けていた。
――すべてはミールを取り戻すため。
呪いのように私の思考を頑なにするその言葉。
――すべてはキュベレーを抹殺するため。
その言葉を信じ続けて、私は狼のように走り続けた。疲れも感じず、動くことへの飽きれは生まれない。身体は恐ろしく軽く、足を踏み込めば踏み込むほど、刺激的な大地の感覚と、それによって揺るがされる体内の三つの大きな力が、私を興奮させた。
――殺してやる。
そうして私はとうとう、廃れ古ぼけた幽霊のような城に足を踏み入れた。