1.生まれ故郷
山間に沈みゆく荘厳たる太陽の姿を見つめながら、世の中が血の色に染まっていく姿に私は内心血を滾らせていた。
もう四半世紀近く前、私はあの夕陽を毎日眺めていた。
あの頃はもっと純粋だった気がする。人間としての教えを守り、ごく当り前の平凡な農夫として、サファイアと共に生まれた村で一生を過ごす。
その幸せを信じてやまなかった。
大人になってからもずっと信じてやまなかった。
太陽が沈み、闇夜が訪れる前に幼い私達はいつも親元へと逃げ帰っていた。闇夜に紛れる魔物はそれだけ恐ろしく、唐突に降り出す塵という存在はそれだけ疎ましいものだった。
ああ、それはたった四半世紀ほど前の事なのだ。
今、私は生まれ故郷の片隅で同じ景色を眺めていた。隣にいるのは成長したサファイア。けれど、彼女本人ではない。悲しい事に、彼女本人は何処にも居ない。身体が例え本当にサファイアだったとしても、その魂と心はグリフォスと名乗る死霊のみが宿っている。
あの頃の私が望んでいた未来はここにはない。だけど、魂に代えても望んだ違う未来だけが伸ばした手に引っ掛かろうとしている。
サファイアの忘れ形見を奪った魔女の巣窟は、もうすぐ近くまで迫っていた。
憎きキュベレーの居場所を暴き、その身体より黒い毒の血を飛び散らす未来は、もうすぐそこまで来ている。
村には誰もいなかった。
赤みがかった景色は無人の集落をただ照らしている。ここに住まう者は気付いているのだろうか。知っているのだろうか。
大騒動となった私の凶行も、一度都を離れてしまえばその報せも全く届いていない場所は沢山ある。
ここもその一つか否か。
そればかりは分からない。
ただ、私はここまで進み続けた。昼も、夜も、塵の降る時も、降らぬ時も、私はただ魔女を殺したい一心で進み続け、恨みを募らせていった。
そうして先に辿り着いたのが生まれ故郷だったのだ。
純粋だった私の目に世界はどう見ていただろう。
それは、思い出せないほど昔の事にも思えた。今の自分等想像出来ぬほど平凡だった少年は、この太陽に対してこんなにも黒々とした呪詛を吐いたりしなかっただろう。
「ゲネシス」
サファイアの囁き。サファイアの眼差し。
そっと私の手を掴むその仕草もまた、婚約を決めた日の彼女と同じものに思えて仕方がなかった。
彼女はグリフォス。
どんなに言い聞かせても、死霊だとか悪魔だとか名乗るこのグリフォスという存在がサファイアの亡骸に宿り、温もりを与えている限り、私の中ではサファイアそのものが甦ったようにしか思えなかった。
違う。けれど、違うのだ。
双子の兄弟が同一ではないのと同じ事。
身体は一緒でも、心が一緒でなければ意味がない。
「震えているわ」
優しげに耳元で囁くサファイア。
いや違う。彼女はサファイアではなくグリフォスなのだ。サファイアの身体を借りているだけで、本当はサファイアではない。
言い聞かせなくては、自我が保てなくなりそうだった。
「気のせいだ」
静かに答えると、グリフォスは黙りこんだ。
太陽は沈み、夕闇が世界を包みこむ。人の声も、気配も、黙りこんだままで、まるで何もかもが死に絶えてしまった赤色の世界に迷い込んだかと思うほどだった。
たった一人の強大な魔女を見つけ出し殺すために、そして、たった一人の少年を救うために、私は大罪人となった。
止められるのならば止めてみるがいい。
私とミール、そしてサファイアを救ってもくれようとしなかった全ての世界を私は恨んでいる。たとえ、おぞましいこの世界を壊す事になったとしても、私は後悔したりしない。ミールを取り戻した後は、混沌とした世界の中で生き続けよう。
――聖獣のいない新しい世界で。
きっと誰もが困惑するだろう。
それとも何も感じないのだろうか。
ああ、けれどミール。
お前は今のままではそんな世界の変化すらも知る事が出来ないのだ。
おぞましい魔女の性を満たす道具に成り果てているなんて思うだけで反吐が出る。魔力欲しさに罪なんぞを背負った愚か者の慰み者に他ならぬお前がなってしまったと思うだけで、私は怒りで燃え尽きてしまいそうだった。
キュベレー。
私に晴らせばいい恨みをわざわざミールを巻き込んで晴らした魔女。私にとって、グリフォスなんて悪魔でも何でもない。本物の悪魔とはキュベレー以外の何者でもなかった。
サファイアが死んだ時はまだ無理矢理にでも耐えることが出来た。
人狼の被害は珍しくない。特に、都より贄を託されている村は、度々人狼の被害に遭ってしまうものなのだ。肝心の贄は厳重に守られているものだから、結局、害を被るのは普通に生活している村人ばかりだった。
サファイアはその一人。
婚礼の日を前にその身を人狼に攫われてしまった哀れな女。
けれど、サファイアのような者は世界的に見れば珍しくもなんともないのだ。同じ村人であったとしても、サファイアとの関わりが薄ければ薄いほど、よくある犠牲だと捉え、悼む心もどう足掻いても他人事に過ぎなかった。
勿論、そんなのは世間一般の事であって、私の心情には関係がない。
何故、サファイアが。何故、私が。
どんなに恨んでもサファイアを奪った狼は帰って来ない。狼を呼びこむ事となった贄に八つ当たりしようものならミールを巻き込んでの村八分に遭うだろう。
だから私は必死で耐えた。
サファイアの死を納得しようと必死だった。
仕方がなかったのだ。どうしようもなかったのだ。今後はもはやミールと自分が生きて行くことを考える他は無いのだ、と。
それなのに、キュベレーは私からミールを奪った。
確かに私は恨みを買った。仕事の依頼等、最愛の友を殺された身からすれば言い訳に他ならなかっただろう。だとしても、その恨みは私に晴らせばいいじゃないか。
そして、その復讐に丁度いい性癖を持っているなんて。
思い出せば思い出すほど、キュベレーへの恨みは募っていく。
そんな私を横から見つめ、グリフォスは風に攫われるかというほどの小さな声で私に囁いた。
「そろそろ、行きましょうか」
その誘いに、応じるほかなかった。