9.白い世界
グリフォスは程無くして現れた。
廃れた聖地を共に去り、崩壊し始めるであろう竜の町をひっそりと後にした時、私達の頭上へと白い雪のようなものが落ち始めた。
手のひらでそれを救ってみれば、仄かに温かく、不思議な香りのする砂のようなものだと分かった。
しばし見つめ、私は気付いた。
――塵だ。
グリフォスも、そして私も、その白い世界をただ見つめていた。
かつて異臭をもたらし、忌々しくも動きを封じようとしていたその塵が、まるで私とグリフォスを讃えるかのように降り積もっていた。
悪臭なんて何処にもない。
不思議と温かな雪が降り積もっているだけのようにしか見えない。臭いはするが、異臭などとは呼べず、香りと表現する方がしっくりとくる。
グリフォスはサファイアの目で塵を見つめ、そしてその香りを嗅いだ。
「戻ってきた……」
震えた声が塵に吸われていく。
「私の全てが戻ってきた」
嬉しそうにそう言って、グリフォスは降り積もった塵の上を歩きだした。私もその後に続いてみた。
これまで、塵の中で動けないわけでもなかった。
だが、それは相当無理をしてのことであって、こんなにも自然に、むしろ、楽々とした気持ちで塵の上を歩ける日が来るなんて思いもしなかった。
同時に、私はついに実感する事となった。
塵というものは、魔物の為に存在しているものなのだと言われてきた。人間を愛した神によってこの世が人間だけの為に整えられた時代、神の意に沿わぬ反逆者が魔物を憐れみ、魔物の為となるように塵を生みだした。
その為に、世界は分断された。
光の輝く時間と、塵の輝く時間に。
光の輝く時間は魔物達が苦しむ。生まれ持った力を半分も使うことが出来ず、相手が人間であっても殺されてしまいかねない。
塵の輝く時間は人間達が苦しむ。酷い悪臭に苦しめられ、動く事すらままならなくなってしまう。安全な場所にいなければ魔物に襲われてしまいかねない。
これにより、人間と魔物の間の溝は更に深まった。特に塵の降る時間に動くような者は、魔物としてあらゆる人間から侮蔑される。
魔物ではなく魔族であっても同じ事。
そんな塵を私は平然と吸うことが出来ている。
つまり、私はもう人間ではないのだ。
キュベレーを殺すために、人間以外のものへと身を落としてしまったのだ。後悔なんて何処にもなかった。ミールを救うにはこれしかない。憎きキュベレーをこの手で抹殺するには、人を超えた力が必要だった。
神なんてもはやどうでもいい。
世界の均衡を守るとかいう聖獣もまた、どうだっていい。
何の罪もないミールを諦めることが正しいことだというのならば、そんな世界はいらない。悪しきキュベレーを野放しにすることがこの世の掟と言うのならば、そんな掟は壊してしまいたかった。
私が従うべきはグリフォスただ一人。
亡き人の姿で現れ、三つの獣を殺す力を与え、願いを叶える為に導いてくれる彼女こそ、悪魔でも何でもない、私にとっての天使のようなものだった。
「これで、あなたの願いを叶えられる」
グリフォスがはっきりとした声で私に言った。
「卑怯にも隠れ潜む大魔女の居場所を暴き、哀れなミールを見つけ出す為に、協力する事が出来るわ」
確信の伴う声に、私は静かに頷いた。
塵の上には私の足跡がある。
足跡は一つだった。グリフォスの足跡は生まれてはすぐに消え、まるで此処には存在していない幻影のように存在を隠してしまう。私が人間ではなくなったように、彼女もまた人間としてのサファイアの屍から解放されてしまった。
悪魔を騙るその存在を前にすれば、キュベレーのような強大な魔女の魔力も悲しいほどに無力と化すだろう。
――ゲネシス。
幻聴が私の耳をくすぐった。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけだが、それはサファイア本人の声に聞こえた。亡霊のような彼女の声がまるで嘆くように私の名を呼んだ。
どうしてなのかは分からないが、脳裏には散々私を止めようとして来たカリスの姿が何度も再生されていた。
これは混乱だろうか。
塵の上を歩きながら、とぼとぼとキュベレーの元を目指す私の思考が、吐き気をもよおすほどにぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
これでよかったのか。
悪かったのか。
何もかも分からないまま、私はただ歩き続けた。
「ゲネシス……」
今度ははっきりとした声が届いた。
私の手を握るのはグリフォス。サファイアの姿を借りたその存在が、さり気ない動作で冷たい私の手をそっと握りしめる。
温もりを感じながら、徐々に混乱が払われていくことに気付いた。
塵にも苦痛を覚えなくなった身体を引きずって、私が向かうのはこれまでずっと想い描いてきた色鮮やかな未来の姿。
色のない現実のために色を取り戻さなくてはならない。
使命感のようなものが私を衝き動かしてくる。
「行きましょう、あなたと私の弟の仇のもとへ」
生きているかのようなサファイアの声が私の耳をくすぐる。
その誘いを無下にすることが出来るわけもなく、私はグリフォスに手を握られたまま、塵の世界を進み続けた。
真っ白な塵。
雪景色のような世界。
酷い悪臭を放っていた過去などとうに忘れて、私はその美しい白い世界の中を淡々と歩み続けていた。