7.憎らしい生贄
――ああ、やはりこの娘は。
剣を握りしめ、私はその姿を睨みつけた。
黒豹だ。一瞬にして変身してしまった。この娘から感じた奇妙な気配はこれだったのだ。
その姿を見て、私は思い出した。この国のあちらこちらの村に弱々しい魔物が匿われている。私がサファイアと共に育った村も同じだった。
「ルーナ、来ては駄目!」
アマリリスの声が響く。
そうだ。そういえば、ルーナという名前を先程も聞いたのだった。
「命令よ、逃げなさい!」
強い口調だった。けれど、ルーナとかいうこの魔物の娘は逃げたりしなかった。
アマリリスを見捨てることが出来ないのだろう。聖堂の床を踏みしめ、白い牙をむき出して私を威嚇していた。
彼女がそのつもりならば、相手をしてやるのも礼儀だ。
ゆっくりと近づく私に、背後から懇願するような声があがった。
「駄目……お願い……」
自分が殺されそうになった時よりも、何故だか必死だった。
そして、残酷にも聞けば聞くほど、私はルーナを殺したくなった。
この娘の正体を私は知っている。
都が各地の村にもたらした贄の一人。実体のない弱々しい魔物の幼子を養うことで、貧しい村は都から資金を貰うことが出来る。
多くの村人たちはこれが何なのか知らぬまま育て続ける。
だが、私はきちんと学んだことがある。これは、古代の魔術師たちがあらゆる魔力の源を封じ込めたとされる魔獣の末裔だ。
変容する姿は並々ならぬ力の証拠。
だが、それを使いこなすようでは取り扱う人間に危害が及ぶため、本人に操る術は持たせなかった。
この魔物が役立つ場面は多い。
魔女狩りの剣に効力を与えるのもこの魔物の血肉で精製された秘薬だ。他にも、あらゆる病の治療にも使われる。
このルーナという娘もその一人。本来ならば育った村の為に、そして、国のために、その身を捧げなくてはならなかったはずの存在だ。
「ルーナ、お願い、逃げて!」
アマリリスの叫びがルーナには通用しない。
力差も分からないのだろうか。
立派な黒豹が私を襲おうと身をかがめる。だが、その力はともすれば本物の黒豹よりも弱いかもしれない。
ルーナを匿っていた村はどうなっただろう。
魔物を取り逃がすということは重罪となる。責任者は都に引っ張られ、あらゆる屈辱的な裁きを受ける事となるだろう。
考えてはみたけれど、あまり同情は出来なかった。
私の村でもこの魔物を匿っていた。匿っていたために人狼は現れた。本当の狙いは小屋に閉じ込めた魔物だった。だが、人狼は魔物を守っていた剣士に恐れを成し、人間を襲うことで飢えを誤魔化した。
その人間こそがサファイアだった。この魔物という存在のせいで、サファイアは死んだ。
弱き魔物を養い、都からの資金を頼りにしたばっかりに、人狼を呼びこむ羽目となったのだ。
そう思うと、ふつふつと恨みが湧き起こった。
ルーナという娘のせいではない。私の村にいた魔物のせいだ。それでも、同じ魔獣の末裔と言うだけで、ルーナもまた同罪に思えてしまったのだ。
哀れな獣をこの剣が捉えるのに、さほど時間はかからなかった。
そして、怒りに狂った彼女を罠にはめる事も、恐ろしく簡単な事だった。
「来い、ルーナ」
私のその一言で、純朴な獣は分かりやすい軌道で飛び掛かってきた。美しく、しなやかな身体は、本物の黒豹のようだった。
殺すには惜しい。けれど、殺さないには治まらない感情の乱れが私を支配していた。
リヴァイアサンを殺すよりもあっさりと、私は剣を払った。その途端、確かな手ごたえと共に悲痛な娘の悲鳴があがった。
黒豹を斬ったはずだけれど、斬られたルーナは瞬時に人間の娘のような姿へと変わった。
こちらが本来の姿なのだろう。か弱き娘を斬ったようなものだが、罪悪感は生じない。
前の私ならどう感じただろう。
痙攣し、死へと向かうルーナの姿を見ても、何も感じなかっただろうか。それすらも思い出せぬまま、私は哀れな魔物の最期を見届けた。
「ルーナ……」
掠れた声が聞こえ、私はふとルーナの守ろうとした《赤い花》を振り返った。
力を失い、膝をついている。逃げ出す様な事は無く、青ざめた顔で呆気なく散ったルーナの身体を見つめていた。
己が死ぬかもしれないという状況も忘れ、アマリリスはただルーナの死を受け止めきれずにいるようだった。
「悲しんでいるのか」
――魔女のくせに。
剣を下げたまま、アマリリスへと近寄った。
ルーナが魔物と言うだけで殺すに値した事と同じく、このアマリリスとかいう魔女だって見逃す気は無かった。仮に《赤い花》など持っていなくとも、この剣に血肉を吸わせる事は決めていた。
だが、その決断を実行する前に、またしても邪魔者は現れた。
金色の風と共に音もなく忍び寄った獣。素早くアマリリスの前に立ちはだかり、恨みと軽蔑の籠った目で彼女は私を睨みつけた。
ちらりとアマリリスを振り返り、彼女は言葉の代わりに唸り声を一つ上げた。
「カリス……?」
アマリリスが呟く。
カリス。数えることも面倒なほど私の邪魔をしてきたその雌狼が、唸り、そして私に向かって吠えた。
力はグリフォスに吸い取られたまま。それでも、カリスは私に飛び掛かってきた。
「邪魔するつもりか――」
そう言って剣で薙ごうとしたが、カリスは素早くそれを避けた。翻弄するように私を弄ぶ。その牙はしきりに私の足を狙っていた。
遠慮などそこにはない。
かつて必死に止めようとした彼女はもう何処にもいなかった。もちろん、それは、私から言い放った決裂の結果に過ぎない。
段々と押されていることを実感し、私は考えを変えた。
ここで無理してこの二人を殺すのは時間の無駄だ。それならば、取るべき行動はただ一つのみ。恐ろしく単純な思考のままに、私はカリスと戦う事を放棄し、そのままグリフォスの向かった場所を目指した。
幸いにも追いかけてくる者は、何処にもいなかった。