5.最後の祠
全ての人間を殺してからようやく竜族は現れた。
社に散らばる惨状を目にして、彼らは驚きを隠せない眼差しで私を睨みつけた。
ずっと何処かにいてこの事態に気付いていなかったのだろう。殺生を禁じられたこの場所で平然と殺生する私を、汚らわしいものを見るような目で見ていた。
ほどなくして彼らは人間には到底扱えないような武器を手に襲いかかってきた。
その最中、カリスは姿を消した。
けれど、どうだっていい。此処まで来れば、同じ事だ。今までと何も変わらない。悲鳴は上がり続け、人間のものよりも濁っている血が流れ始める。
彼らが守ろうとするのは開け放たれた扉。
向かって来る全ての竜族に深手以上のものを与えた時、その扉より竜族とおぼしき娘と、その娘に続いて数名の女たちが現れた。
その一人、赤い色を纏った女の姿が私の気を引いた。
――魔女だろうか……。
目立つ風貌のせいだけではなく、心をざわつかせるような独特の雰囲気が彼女にまとわりついているように思えた為だ。
じっと彼女の姿を見つめていると、空間を揺るがすような耳障りな怒声が響いた。
「不届き者!」
竜族の娘だ。同胞が傷つけられて怒り狂ったのだろう。
剣を片手に迫って来るその姿へと目を移し、私は静かに血の臭いを嗅いだ。これまでと何も変わらない。何も変わらないし、何も感じない。
娘の攻撃を呪われた剣で弾き返すと、そのまま斬りつけてやった。
汚らわしい竜の血が私の衣服を穢す。出血は酷いが、もしかしたら殺せてはいないかもしれない。それでも、構いはしない。
私の目的はこの先にあるのだ。
扉の前で今も佇む三人の女たちへと目をやると、そのうちの二人が怯えを顕わにしているようだった。だが、一人は――赤い衣に身を包んだ女だけは、じっと私の動きを見据えて構えていた。
――やはり、この女。
歩み出す私に向かって、赤い色の女が何かを放つ。
魔術だ。躊躇いもなく放った。私を殺すための魔術を、平然と放った。だが、その攻撃は私には当たらなかった。
当たるわけがない。グリフォスに守られている私に通用するわけがない。
それよりも、たった今知る事となった事実が、私の心を揺さ振っていた。
――魔女。
キュベレーの憎々しい姿が甦ってきた。内なる震えを抑えつつ、私は再び歩み出す。
赤い魔女が仲間の女に何かを告げる。
すると、すぐに一人が扉の中へと消えた。手を繋いでいるもう一人にも何かを諭している。何だか知らないけれど、無駄な事だ。
ここにいる以上、私とグリフォスからは逃れられない。
諭すようにもう一人も扉の中へと逃した後、赤い魔女はたった一人きりで私の前に立ちふさがった。
その目が見つめるのは私だけ。そう私だけ。
彼女は気付けなかった。私の異様さにばかり気を取られ、真横から音もなく迫っていたグリフォスの存在に気付かなかった。
人間の女一人を食べたばかりのグリフォスが、赤い魔女の腕を強く掴んだ。
「やっと捕まえた」
――やっと?
その時、私はようやく赤い魔女という存在の正体について思いを巡らせた。
カリスの隠していた至高の心臓。グリフォスを苛立たせていた余計な存在。幾度となく聞かされてきた、アマリリスという名前。
「行きなさい、愛しい人」
グリフォスの声が私の意識を思考から呼び覚ます。
「あなたの相手は聖堂の中よ」
そうだ。この先だ。
誰もリヴァイアサンを救う事なんて出来ない。先に逃げ込んだ彼女達だって同じだ。出来る事と言えば、海巫女を逃がす事くらいだろう。
歩み出す私を見て、赤い魔女がもがこうとする。
「放して――」
そんな虚しい頼みをグリフォスが聞いてくれるはずもない。
私は躊躇わずに扉へ――聖堂の中へと進んだ。
聖堂の中は薄暗い。
けれど、祠の前だけは明かりが灯っており、神聖な儀式が行われていたのだという雰囲気だけが伝わってくる。
その祠に縋るように震えているのは清らかな晴れ着に身を包む年若い人間の娘。
あれこそ、捧げられたばかりの海巫女だろう。その娘を庇うように、先程逃げ込んだ二人の女たちが立ちふさがっていた。
だが、私の意識はそちらには向かない。
睨みつけるような視線が心を震わせていた。
姿が見えないことが不思議で仕方ない。そのくらい、はっきりと、彼女の気配を感じ取ることが出来たのだ。
私の体内で蠢く気配が二つ。引っ張られるように、三つの存在が共鳴している。
――リヴァイアサン。
私は心の中で彼女に告げた。
姿を見ることも出来ぬ、その雌竜に。
――迎えに来たぞ。
恍惚とした感動に身を寄せるのも束の間、姦しい叫び声が背後より聞こえてきた。
「逃げて!」
あの声だ。聖堂に入る前に聞いた赤い魔女の声。哀れにもグリフォスに囚われてしまった無力な女の声だ。
仲間と巫女に告げているのだろう。
その魔女の声に重なるように歌うような綺麗な鳴き声が何処からともなく漂う。その音を耳にして、海巫女が目を丸くする。
女の一人が即座に動き、海巫女の手を引いて別の出入り口へと逃れていった。
だが、何処へ逃げようと同じ事。
私はただ姿の見えないリヴァイアサンへと近づいた。
「ルーナ! 一緒に行きなさい!」
ルーナと呼ばれた仲間もそれに従う。私の剣がぶつかるより先に、ただの人間にしては奇妙な臭いのするその娘は巫女の逃れた道へと逃げていった。
「これで逃がせたと思っているの?」
背後でグリフォスが捕えた魔女へと残酷に語る。
「思い知らせてあげる。あなた達はもう負けているのよ」
最後の祠を前に、私は剣を掲げた。