4.奴隷の逃亡
――不審者だ……誰か……。
鼻先にこびりつくような悪臭を淡々と感じながら、私は内心苛立っていた。剣を握りしめながら、開け放たれた扉をじっと見つめる。
竜族の数名を取り逃がした。
他の社とは違って巡礼者も少なかった今、頭のいいリヴァイアサンの末裔たちはこの異常事態を奥に居る者達に伝えるという判断を瞬時に決めたようだ。
だが、だから何だと言うのだろう。
伝えたくらいで私を止められるのならば、ジズも、ベヒモスも、破壊されるような事はあり得なかったはずだ。
焦る必要もなければ、悲観する必要もない。
けれど、取り逃がしたリヴァイアサンの末裔の背中を見ると、無性に苛立った。呪われた剣が血を欲しているせいだろうか。
グリフォスは血塗れの床を平然と歩きながら、まっすぐ扉へと向かう。
嫌がるカリスを引っ張りながら、彼女は抑え気味の声で私を促した。
「そう遠くないわ」
恍惚とした声。
逃げながら他人を呼ぶ獲物達。
身体の根底から湧きあがる炎のような感情が私に揺さ振りをかける。走り出さずにはいられなかった。まるで獣にでもなったかのように、私は逃げ惑う人外どもを追いかけた。
一人、一人、手の届く者を剣に喰わせ、力が衰える間もなく先へ進んだ。
グリフォスはいつの間にか傍に居る。不服なカリスを静かに支配しつつ、私の戦う様子を恍惚とした表情で見守っていた。
そして、先に進み続けてやっと、私は彼らとはち合わせた。
「あなたは一体……」
見開かれた目が私の姿をじっと見つめていた。
礼服を着せられた十数名の老若男女だ。それも、今までの社にいたような人間の姿を偽った魔物や魔族などではない。まさに、私と同じ外見と魂を持つただの人間達だった。
この国の神は忠義なる人間を守ろうとお告げになった。
それにも関わらず、古の邪悪な信仰を捨てきれぬものどもは、今の時代においても聖獣に過ぎないリヴァイアサンを崇拝する。
人間の信仰の上に成り立つ平穏の前では、邪教など脅威でしかない。
かつて、権威ある者達は、三神獣への信仰を禁止しようとした。けれど、ある人間の部族の反対と、それを支持する頭の固い群衆の団結を前に、断念せざるを得なかった。
それ以降、三神獣は三聖獣として捉えられることとなる。
だが、それは妥協に他ならない。
この人間達はまさに、かつての聖職者の意に添わなかった野蛮人の子孫だ。
私は知っている。
彼らこそリヴァイアサンの寵愛を受ける部族の末裔。
先代の巫女より、或いは、今の巫女よりこの場に留まり、この世間ずれした場所で一生を過ごす運命となった生贄どもだろう。
同じ人間。
けれど、私と彼らの間には、決定的な違いがある。
「悪いが……全員、死んでもらう」
剣を握りしめ、私は彼らに向かって走り出した。
どういうわけか、これまでのように邪魔をしないのならば見逃してやろうなどという心の余裕は生まれなかった。
ここにいる全員を斬り殺したとしても、私の疼きは止まりそうになかった。命を奪うことというよりも、この剣で魂の宿るものを斬りつけるという行為ばかりが拘りとなって私を苦しめていた。
人間達もまた私の目的を察しているのだろう。誰もが恐れて逃れ始める。けれど、こんなに狭い社の中では抵抗もろくに出来ないようだった。
一人、また一人。
悲鳴があがり、魔物や魔族よりもずっと綺麗な血が流れ始める。
人間を斬り殺したとしても後悔は無かった。悲鳴を上げて、苦しんでいるこの一人ひとりがどんな人間で、どんな人生を辿ってきたのかなんて知らない。ただ、共通した事は、皆、私の剣の贄となったことだろう。
老いた者から次々に我が刃の餌食となった。
対して、比較的若い者たちはなかなかしぶとい。特に、剣の切っ先すらかわして私から距離を取る三人の男女は、こんな短時間に顔を覚えてしまうくらいだ。だが、この三人は他の者達とは違って我先に逃げ果せようという意思を感じられなかった。
年若い為だろうか。それとも、奥にいるはずの巫女を心配しての事だろうか。どちらにせよ、私にとっては有難い事に他ならない。
どさくさにまぎれて逃れようとする一人の中年を躊躇いなく殺してから、私は彼ら三人に告げた。
「来い。若者共」
青年が二人に娘が一人。
成人しているかどうかさえも分からない。その若い血肉を剣が欲しているような気がした。或いは、グリフォスだろうか。
気付けば辺りは血だらけだった。
若い三人は怯えを隠しきれぬまま私達を見ている。だが、ふいに青年の一人がグリフォスとその手に握られる狼の鎖を見つめた。
焦りの最中で何か企んでいる。
私は急いで彼を斬り殺しに向かった。だが、私が近寄るより前に、彼の口元が微かに動くと、三人がほぼ同時に走り出した。
向かうはグリフォスの元。
直感で私は剣を操った。逃がしていいわけがない。狙うは、力がある方の者達。すなわち、二人の青年。ジズの、ベヒモスの、魂が私を躍らせる。同時に走り出した娘はほぼ無視して、私は二人の青年を斬り捨てた。
大した悲鳴もあげずに彼らの身体は崩壊する。
それを確認してすぐに、私は残った娘へと視線をやった。娘はすでにグリフォスに掴みかかっていた。何の武器も、魔術も持たずに、素手で。
その様子を見て、やっと理由が分かった。
娘に掴みかかられたグリフォスの手から鎖が抜けおちたのだ。それに気付いてカリスが慌てて走り出し、グリフォスから距離を取った。
目的はたった一つ。カリスを解放するつもりだったのだ。ということは、この三人はカリスの事を知っていたのだろうか。
「面白い事をするわね」
グリフォスの冷たい声が響いた。
鎖を逃したばかりのその手が、今度は娘の腕を掴む。冷たい眼差しに娘の顔が青ざめる。分かっていたのだろう。グリフォスがどういう存在であって、どういう性癖を持っているのかということを。
震えたまま娘が力を失う。恐怖の為なのか、グリフォスに力を奪われているのかは分からない。ただ、確かな事は、この時点ですでに彼女は死んだようなものということだった。
カリスが事態に気付いて娘を凝視する。
人食い狼である彼女が、あんな目で人間の末路を見る事なんてあまりないことかもしれない。ただ、どんな目で見ていようと、カリスにはもう助ける事なんて出来なかった。
巫女を食べる時とはだいぶ違う。
剣で斬り殺すよりも生々しい音と臭い、そして、哀れな娘の苦しそうな悲鳴が社に響き渡っていく中、私は目を逸らさずにその赤い景色を見つめていた。