3.不可侵
リヴァイアサンの社にはさほど巡礼者もいなかった。
特別な日であるためだろうか。仮にも人間を含む獣たちを守護すると豪語している場所なのだが、他の社とは違ってあぶれた巡礼者が数十名いるのみだった。
中に入ろうとする私を、そのうちの一人が呼びとめた。
「ちょっと待ちな、兄ちゃん」
見れば、何処からどう見ても人間にしか見えない旅人風の中年男性が、数名の仲間と共に私やグリフォスを見ていた。いや、見ているのは私達の姿ではない。グリフォスの手に握られた鎖と、その先に繋がれる狼の姿を見つめていた。
獣を持ち込もうとしていることに異を唱えたいわけではないらしい。
彼らが抱いているのは、純粋な疑問だった。
「そいつは……本当に犬っころかい?」
「狼の血も多少引いているかもしれないわね」
グリフォスが微笑みながら告げると、旅人達はさらに困惑を見せた。
「いや、その、そういう事じゃねえんだ。狼とか、犬とかじゃなくて、そいつ……」
その時、カリスが訴えるように鼻を鳴らした。
ただの人間相手にはしない行動だろうとなんとなく察してしまった。人間にしか見えなかった彼らだが、ひょっとするとそうでもないのかもしれないと。
私の目付きが変わったのに気付いたのか、喋っていた男が言いかけたまま唾を飲んだ。彼の仲間たちも同じだ。
恐らく、私の下げている剣の存在にも気付いたのだろう。
「ただの飼い犬だよ」
私がそう言うと、彼らは互いに顔を見合わせた。
「それが何か?」
更に問い正す私を見て、話しかけてきた男が慌てて笑みをつくった。
「いやね。あんまり綺麗なんで気になったってだけだよ」
妙に明るい口調で彼は言うと、私やグリフォスにも断らずにしゃがみ、必死に鎖から逃れようとするカリスの鼻先をそっと触った。
怪しい。
それが分かったのか、男の手をグリフォスがそっと触れた。
「手を出さない方がいいわ。その子、噛みつくから」
男が目を見開いた。
「そ……そうか……」
言葉のやり取りなんて表面上のものに過ぎない。男が驚いているのは、きっと、グリフォスに触れられて異変を感じたからだろう。
その瞬間、明らかに怯えは生じていた。
男はあっさりと身を引き、仲間と共に私やグリフォスから距離を取った。そんな彼らを引き留めるようにカリスが鳴く。
――もしや、同胞なのだろうか。
無意識に殺気だった目に、男の仲間の一人である女が、離れたところより恐る恐る声をあげた。
「兄さん、目が血走っているわ。それじゃ、リヴァイアサンが驚かれてしまう」
喋っているあれら一人ひとりがもしも人狼だとしたら。
サファイアを喰い殺し、私の人生を狂わせた魔物の仲間だとしたら。
そう思った瞬間、全てが憎く思えてきた。
「だめよ、ゲネシス」
そっとグリフォスが耳打ちをした。
「その力は大社に足を踏み入れてから放ちなさい」
あらぶる馬を宥めるようなその声が、熱せられた私の頭を少しずつ覚ましていく。ここを制圧すれば、終わりだ。
キュベレーを見つけ出し、殺すだけの力が手に入る。
そうすれば、ミールだって救いだせる。
自分に何度も言い聞かせながら、私は深く息を吐いて、人狼と思わしき数名の巡礼者達に向かって答えた。
「そうか。生憎、人相が悪いものでね。ともかく、気をつけよう。心遣い感謝する」
感情の伴わなかった私の声に、彼らの表情が硬くなる。
数名はカリスへと視線を向けていた。憐れむようなその目が、同胞のものではなければ何なのだろう。だが、彼らは彼らで目立ったような行動は起こさなかった。
ここを聖域だと思っている証拠だ。
血を流してはいけないと本気で信じているからこそ、日頃汚らしい方法で人間を喰い殺す奴らもカリスを救うことが出来ない。
「さあ、行くわよ」
優しげな言葉と共にグリフォスが鎖を引っ張る。
カリスは暫く彼らに向けて何かを訴えていたが、やがては観念してグリフォスの誘導につき従った。
そうして、私達は最後の社に入りこんだ。
ジズのものとも、ベヒモスのものとも変わらない。変わっているとすれば、見張っているのがリヴァイアサンの末裔とされる竜族である事と、祀られている偶像がリヴァイアサンである事くらいだろう。
また他の二社とは違って、祈りを捧げている者はとても少なく、奥へと続く扉は固く閉ざされていた。
社の中に居た竜族達の視線がふと私達を捉える。
勿論、彼らの視線の意味は理解していた。カリスが人狼であることくらい、彼らだってすぐに分かるだろう。
怪訝そうな表情で、竜族のうちの数名がこちらに向かってきた。
「そこの御仁、悪いが少し話を聞かせてもらってもいいだろうか……」
薄っすらと敵意の浮かぶ言葉だった。
私は足を止めぬまま、偶像ではなく扉へと向かい、そして剣を取りだした。その瞬間、先程まで様子を窺っていた竜族達の表情が一変した。
「お前、何者だ?」
竜族達の様子に、たまたま居合わせた巡礼者達もまた気付いた。動揺が広がり、数名が社から逃れて行く足音が耳に届く。
だが、視線は扉に向けたまま離さなかった。血に飢えた剣が唸っている。閉ざされた奥で息を潜めているリヴァイアサンの血肉を欲しているのだ。
実感を受け止めながら、私は静かに答えた。
「私は……罪人だ」
他人のもののような自分の声を耳にした瞬間、もはや私に理性など残ってはいなかった。