2.黒い闘志
竜の町に足を踏み入れても、特に異変は感じられなかった。
巡礼者はいつものようにいるし、町に住まう人々も問題なく暮らしているようにしか見えない。竜族の者たちが目を光らせているように見えるが、彼らは元々目付きが悪い生き物なので参考にもならない。
ただ、違った類の緊張感はあった。
カリスの鎖を引っ張るグリフォスが、そっと私に耳打ちをした。
「この聖域はね、ちょうど巫女が捧げられる最中なのよ」
何処で知ったのか、彼女は確信と共に私に刷り込んだ。
「今ならば間に合う。再会の幸福に奴らが浮かれている今ならば、社を制圧することなんてとても簡単なことでしょうね」
そうするならば、休む間は無い。
だが、そんな事は気にならなかった。
ただでさえ殆ど休まずにここまで進み続けたのに、私の身体は悲鳴を上げるどころか、この町に足を踏み入れてからは特に疼いて仕方がなかった。
リヴァイアサンが欲しい。
海より命を運んだ全ての母の命が欲しくて堪らない。
あらゆる獣。人間をも守護するという聖竜。そんな海の化身がこの近くの祠に祀られている。確かにそんな気配は感じることが出来た。
私が殺すべきもの。剣が欲しているものの気配に違いなかった。
「今、社に行けばその場に乗りこめるのか……」
グリフォスの大いなる力を信じ、私は訊ねた。
既に血を欲している。神聖とされるはずのその儀式に乗り込み、若き海巫女の味を知るかというリヴァイアサンの首を容赦なく斬り落とす瞬間を想うと、強い衝動にかられてどうしようもなくなってくる。
そんな私の内情を察してか、カリスが耳を伏せた。
そうしていると本当に犬にでもなってしまったかのようだ。
「ええ、でも、無理はしないでいいの。あなたはすでにジズとベヒモスを手に入れている。焦らずともリヴァイアサンは逃げられない。それに……」
そう言って、グリフォスは町の端へと視線を映す。
その先には海辺へと続く道が見える。リヴァイアサンの祠を抱える社があるのはあの向こうなのだ。
やけに静かなその道を見つめながら、グリフォスはそっと呟いた。
「今はまだ。邪魔な者がいる」
「邪魔な者……?」
「《赤い花》よ」
――《赤い花》。
カリスが不要なはずの剣を下げている理由の魔女。かつて乱獲されたという希少種であり、狼に恨まれながら囲われていた者。
その姿を見たこともない魔女。
それでも、アマリリスという名を私は覚えている。
「本物の……《赤い花》」
「気になるようね。さすがは元魔女狩りの剣士といったところかしら」
「絶滅していたと聞いていたが、こいつが前に言っていたからね……」
そう言ってもの言わぬカリスに一瞥をくれてやると、狼姿の彼女は黙って目を逸らした。
「アマリリス。確かそんな名前だったな」
「ええ、そう」
滅亡寸前の《赤い花》を継ぐ者。
例え途絶える危険性を聞いたとしても、その心臓を求める者は数多くいるだろう。
「人間に捕まらないように隠れてしまっているだけで、その種はあらゆる所で発芽している。アマリリスはその一人。美味しそうな心臓を抱えて、魔女である事すら忘れて、私の敵にまわった」
「魔女であることを忘れて?」
その言葉の意味が私には今一分からなかった。
「今のアマリリスは魔女であって魔女ではない。抗えない性と引き換えに魔術を使いこなすのが魔女や魔術師と呼ばれる者だけれど、今の彼女はその性から解放されて戦うことが出来るとても厄介な存在なの」
「魔女が、魔女の性から解放される?」
そんな事があり得るのだろうか。
本物の魔女が囚われる性というものはとても深く、理性などでは到底抗えない罪深いものなのだと聞いていた。
その噂通り、今まで討伐してきたどの魔女も人間には理解しがたい性を抱え、精神を圧迫されながら戦っていたものだった。キュベレーだってそうだ。少年少女へ執着すると言うおぞましい性のせいでミールは囚われてしまった。
そんな魔女が性から解放されるなんて。
「海巫女の、そして彼女を待つリヴァイアサンのせいよ」
グリフォスは恨みのこもった声でそう言った。
「巫女と三獣への協力を誓った以上、アマリリスは常にわたしとあなたにとって脅威となり続ける。分かるかしら、ゲネシス。赤い魔女には深く関わらない方がいい。もしも面と向かって会うような事があれば、話等交わさずにその剣で斬り捨ててしまいなさい」
無論、私にだって魔女と話すような事は無い。
憎きキュベレーの同胞と何を話せと言うのだ。
「性に解放されていようと魔女は魔女。あなたの剣の刃が触れれば、あの女だって黒い血を流して死ぬでしょうね」
サファイアのものである青い目を細めてグリフォスは微かに笑みを見せた。
「そうしたら、幻の心臓はあなたのものにもなるわ」
売り払えば一生遊んで暮らせる金が手に入ると言われている《赤い花》の心臓。
別に大金が欲しいわけではないが、ミールを救いだした後の事を考えれば、あって邪魔なわけでは決してないだろう。
「なんだ。恐れる理由なんてないじゃないか」
リヴァイアサンの社へと続く道を眺めながら、遠くより聞こえる潮騒の音を受けながら、私は自分の身体の根底で黒く燃える闘志を感じていた。
最後の一匹はすぐそこなのだ。
休んでいる余裕なんて何処にもない。
「行こう、グリフォス。今すぐに行こう」
逸る心を必死に抑えながら、私は歩み出した。