1.獣馴らし
錆びた鉄の臭いが風に混じって鼻孔をくすぐって来る。
ベヒモスの聖域の全てを崩落させた私達が向かうべきは次なる聖地。
運命を共にするグリフォスの手には鉄の鎖が握られている。彼女の人知を超えた力で遥か昔に生まれたものであるらしい。その為、鎖は錆び、鮮血のような刺激臭を放つ。
鎖に繋がれているのはただの獣ではない。
黄金の美しい体毛を持つ狼は、不服そうに眼光を主人に向けている。それが誇り高く人間を見下す人狼であると誰が信じるだろうか。
哀れなカリスは唸り続けていた。
その口から私をからかっていた時のような人語が飛び出してくる事はない。人狼としての力の殆どをグリフォスに吸い取られてしまったのだ。
その事を思い知らせるように、グリフォスはしきりに唸るカリスの頭を撫でた。
散々恨めしそうに牙を見せるカリスだが、グリフォスに触れられると大人しく頭を垂れた。理由は単純なものだ。怯え。その感情ばかりがカリスの澄んだ瞳に映しだされている。
ともあれ、私達は血と肉の臭いの混じった社を後にし、躊躇いもなく町へと下った。
獣の町では既に噂が流れていたのだろう。私達が入った時には人の姿は無く、寂れた町のように静まり返っていた。
そして町の外へと向かおうとする私達を待っていたのは、数名の一角達。
愚かな者たちが私の行く手を阻もうとそこに立っていた。
ジズの末裔達の二の舞とも知らずに。
いや、もしくは分かっていてもほんの僅かな可能性に賭けているのかもしれない。すなわち、始祖の仇を取れるかもしれないというような。
「汚らわしき罪人よ。我らが聖なる角に貫かれるがいい」
人間には到底扱えないような巨大な武器を抱え、一角達は嘶いた。
怒れる暴れ馬がどれだけ厄介かなんて、私でも分かる事だ。それでも、私は怯んだりしなかった。殺してきたのは馬どころか獅子よりも厄介な存在だったのだから。
グリフォスに繋がれるカリスが暴れ出す。
言葉にならぬ鳴き声で、必死に何かを訴えている。
その様子を見つめ、一角の一人が静かに微笑みを浮かべた。
「狼の方。希望を捨てず、時を待ちなさい」
それが最期だった。
後に聞こえたのは怒声ばかり。死を決めた一角達が私の命を狩り取ろうと一斉に襲いかかってきた。それはもはや人間相手と決めつけた戦い方ではなかった。
彼らは既に見方を変えている。
きっとジズやジズの末裔の歩んだ道のりも聞かされていたのだろう。
意識を変えたところで彼らが私を止められるとはもはや思わなかった。私の剣には、そして魂には、ジズとベヒモスより奪った血が込められている。
大きすぎる力を発散させるだけで、相手は誰であったとしても面白いくらい簡単に倒せてしまうのだ。
精神を混濁させ、力に溺れる大魔女の気持ちが今なら分かる。
襲いかかって来る一角達を前に、私は確かに悦びを感じていた。相手を堂々と殺す事の出来る悦び。剣に命を吸わせることの出来る悦び。
そして私は欲望に身を任せて剣を払った。
一人、二人、三人。
消えていく命が剣に吸われていく。
四人、五人、六人。
あっという間だった。
突破するのは難しい事ではなかった。一角達もまた、私を本気で殺せるとは思っておらず、飽く迄も時間稼ぎをしたかっただけなのかもしれない。
そんな戦い方だった。
そして七人目を前にした時、私はふと一つの可能性に気付いた。
時間稼ぎをするとすれば、何故、時間稼ぎをしたがるのだろう。命を落としてまで私達の足を止める理由は何だろう。
ただ始祖の仇を取りたいがためだけに、命を落とそうだなんて思うだろうか。
こんな無意味な事の為に命を燃やしたりはしないはず。
だとすれば何か。
私の歩みを止めたい理由。
――時を待ちなさい。
カリスに告げられたその言葉を思い出し、私は七人目の一角の攻撃を避けた。
可能性があるとすればそれは、報せじゃないだろうか。崩落した己らの聖地を半ば諦め、せめて最後の砦だけは守ろうとする為のもの。
その証拠に、私を足止めする一角の数が少な過ぎる。
たった七人。一人ひとりが人間の数倍の力を持つといっても、一角の中で戦える者はまだまだいたはずだ。
何故、現れたがらないのか。
考えるまでもない。此処にはいないからではないのか。
「余所見をするな!」
怒りに満ちた声で七人目が襲いかかってきた。仲間を斬られて殺されたことが、逆に彼の闘志を燃やしているらしい。
だが、真っ向から勝負をするつもりは更々なかった。
たった一人で広い空間を守れるはずもなく、虚しいほどあっさりと七人目の一撃をかわしつつ町の外へと足を踏み出せた。
「逃がすか!」
無駄の多い七人目が私を追う。
こうしている間にも、もしかしたら獣の町の誰かが次なる聖地、竜の町へと向かおうとしているかもしれない。
そう思うと焦らずにはいられなかった。
悠長な事はしていられない。そうなるとやはり、この七人目は邪魔に他ならなかった。逃げるふりをして立ち止まり、勘に任せて素早く剣で空を斬る。それだけで十分だった。的は小さくとも、相手は所詮私が手にした獣の末裔に過ぎない。
たった一撃で彼は動けなくなった。
血を弾く剣を荒く振ると、その姿も凝視せずに私は歩み出した。
戦いをただ見ていたグリフォスも歩みを揃える。引きずられるように歩くカリスだけが、怯えたような目で、一角達の惨状を振り返っていた。