7.弱き蜻蛉
気付けば私は混沌の中にいた。
匂いすらも麻痺してしまって、何が何だか分からない。
ただ、私の全身は血と肉と臓物に塗れ、震える手が握る剣だけ全ての血を弾き、真っ白な刃を輝かせていた。
私の姿を見つめているのはグリフォス。
振り返ると、彼女はサファイアの顔で穏やかな眼差しを浮かべ、私に向かって告げた。
「満足した?」
まるで子に問いかける母親のようだった。
彼女の姿を見て、私はふと我に返った。そうだ。私は……いや、私達は、まだ目的に手が届いていない。
私が壊したのは守りだけ。
真の狙いはもっと遠くに逃げてしまっている。
「大丈夫よ」
グリフォスがにこりと笑う。
「彼女はどう足掻いても逃げられない」
そう言って、グリフォスはふらりと聖堂を歩き、先程は通らなかった道へと進んだ。慌てて追う私を眼差しのみで誘導する。
静かすぎる社の中。
ともすれば巫女等逃げ出してしまっているのではないかというほどだったが、グリフォスは全く焦っていなかった。
巫女は逃げられないと散々言っていたグリフォスだけれど、私は半信半疑だった。カザンとは違って、ダフネとやらは最初から逃げ出していたのだ。今やこの剣に喰われたベヒモスの意思だったとすれば、意味のある逃亡なのではないか。
そんな思いが頭を過ぎっていた。
だが、そんな私の疑問も、さほど時間を置かない内に解消されてしまった。
魔性漂わせるグリフォスの後に間違いなく着いて行ったからだろうか。当の昔に逃げてしまったはずの者達の姿が、私の視界に映り込んだのだ。
「止まれ!」
震えた怒声と共に、入り組んだ社の通路の向こう側より、数名の一角が突っ込んでくる。
決死の覚悟だろう。
だが、時間稼ぎにもならない。
私の目に映っているのは、彼らが走ってきた方向。一瞬だけだったが、見覚えのある姿が見えた気がしたのだ。
ベヒモスの血を吸った剣で、私を阻もうとした一角共を切り捨てると、一瞬だけその見覚えのある人物が振り返った。
金髪の麗人。
獣の目を輝かせ、私を警戒する女。
その周囲には戦いに向いていない弱々しい魔族共がうようよと纏わりついている。その中でも、一際目立つ容姿の娘の手を引いて、その女は去ろうとしていた。
「カリス!」
私はその名を叫んだ。
娘の手を引くカリスが焦り出す。
その様子に手を引っ張られていた娘もまた、ちらりと私を振り返り、その愛らしい顔が途端に青ざめていった。
恐れているのは私でも、床に倒れる一角共の姿でもなく、私の傍にいるものだろう。
グリフォスの含み笑いが微かに聞こえた。
間違いなく、目当てのものはアレだ。
蜻蛉の子。地巫女ダフネ。
「逃げても無駄だ。巫女を寄こせ」
私の声を聞くや否や、カリスはダフネの手を引いて逃げ出した。向かうは通路の先にある空けっぱなしの扉。その先にある部屋が何なのか私は知らない。
扉までは一方通行だった。
他に逃げる場所は何処にもない。
沢山の弱きものを抱えながら、カリスは必死に逃げていく。どうやら、一角の姿はもうないようだ。その事がまた彼女を焦らせているのだろう。
少しずつ扉まで近づいていく。
私がやっと歩きだした時、グリフォスが小さく唱えた。
「逃がさないわ」
大きな音と衝撃が生まれ、開け広げられていた扉が閉まった。ほんの少しだけ怯んだカリスだったが、すぐにダフネの手を引っ張って扉へと突進した。
逃れる道は一つだけ。
だが、その道もグリフォスに閉じられた。
罵声を浴びせながらカリスは扉を殴る。だが、押しても引いても扉はびくともしなかった。人狼の力でさえそうなのだ。カリスと共にいる蜻蛉の子たちは傍から見て分かるくらい絶望していた。
可憐な眼差しの数々がこちらを向く。
一見すれば子供のように見えるが、ここに仕えている以上、ある程度の年齢に達しているはずだった。
魔族。
魔女以外の魔族を狩らないわけでもない。依頼があれば、魔族の一部も狩り取った。その身体にはやはり薬となる部位が多く、時には装飾や愛玩としても売れるものだった。
蜻蛉の子もまた同じ。
愛らしく、年を取らない容姿は、人間の一部からの人気が高く、生け捕りにして欲しいという依頼が多いらしい。
此処にいる一人一人も、もしも市場に出ればそれなりの値が付くものだろう。
だが、生憎、今の私にはどうでもよかった。
「蜻蛉の子たちよ」
私はカリスとダフネの周りで怯える者達に向かって言った。
「死にたくなければ端に寄れ」
しかし、その瞬間、蜻蛉の子達の表情は変わった。
何かを諦めたような顔に、揺らぐ眼差し。私に怯え、グリフォスに怯えていた一人ひとりが、ゆっくりと立ち上がった。
向かうはカリスとダフネの前。
私の忠告とは裏腹に、彼らは阻む形で立ちはだかった。
「あらあら。どうしようもない子達ね」
グリフォスがほくそ笑む。
飽かぬ扉の前でダフネが何かを訴える。
だが、蜻蛉の子たちは聞く耳を持たなかった。カリスもまた、無言で蜻蛉の子達の前へと立ちはだかった。
――ならば、仕方がない。
私は重たい剣を引きずり、彼らにゆっくりと近づいた。