6.ベヒモスの崩壊
足を負傷したベヒモスに、先程までの俊敏さはもはや存在しなかった。
それでも自分の血で聖堂の床を穢しながら、必死に私へ抵抗の姿勢を見せてくる。次第に浮かび上がる己の未来を全力で否定しているような姿だった。
――聖獣とは温厚な者である。
その言葉は恐らく嘘ではないのだろう。
しかし、現在、私の前にいるのは間違いなく猛獣であり、少しでも気を抜けばこちらが命を落としてしまう事は確実だった。
罪人。
先程言われた言葉を思い出しながら、私は動いた。
別に声を張って否定するつもりはない。私にとって聖獣達を守るような神が邪神のようにしか思えないように、彼らもまた彼らの秩序を乱す私や、私を導くグリフォスは悪魔にしか思えないであろう。
グリフォスは悪魔だ。
ただそれはベヒモスを含む、このまとまりのない矛盾した世界を信じる者達にとっての悪魔であって、私にとっては希望の光に他ならない。
そして、私を願いへと近づけるこの剣もまた、私にとっての正義そのものだった。
悪しき魔女に囚われた哀れな少年を死んだものとして見捨てることを納得しろと言われても、納得できるわけがなかった。
だから、私は血を流す。
清らかであるべきこの聖域を穢し続ける。
「さあ、来い。ベヒモス」
足を引きずって逃れようとするベヒモスに、私は両手を広げた。
剣を下に向け、敢えて無防備な体勢を取る。先程までの冷静なベヒモスならば、鼻で笑って突っ込んできたりはしなかった事だろう。
しかし、足の痛みと血の匂いがその思考を狂わせているのだろうか。
ベヒモスの目付きは随分と血走ったものになっていた。
角を掲げ、ベヒモスが唸る。
その声はもはや馬の嘶きからはだいぶかけ離れたものとなっていた。肉を食らう猛獣のように怒り狂い、ベヒモスは勢いよく角を下げて私に向かって突進してきた。
それを待っていた。
巨体が私に接触するまでさほど時間はかからない。だだっ広い聖堂だけれども、途方もなく空間が広がっているわけではないからだ。
意識を研ぎ澄ませ、私は剣を握りしめた。
生き血を滴らせて突っ込んでくるベヒモスの表情を見つめ、剣と心を通わせた。あの表情。まるで侮辱に怒る人間のようだ。
聖獣とはこうも不完全なものだろうか。
古代ならば神であった彼ですら、痛みや情動には負けてしまう。
――カリスは奴の事を神獣と崇めていた。
そんな事を思い浮かべながら、私はあっさりと刃を横に向けた。初めに角がぶつかり、思っていた以上の衝撃が伝わってきた。だが、それに負けるような事は無かった。
かつては負けていたかもしれない。
ただの魔女狩りの剣士だった頃ならば、今頃四肢の一つでももげていたかもしれない。
けれど、今の私にはそんな心配もなかった。
まるで剣が怒声をあげているようだった。ベヒモスの肉体を間近に感じながら、血に飢えた刃が角を抉る。そのままベヒモスが生み出した勢いに乗って、その左半身を大きく削り取っていった。
私は持っていただけだ。
剣のやりたいように任せた。
魔女狩りの剣士を辞めた日に持ち逃げしたこの剣も、グリフォスの魔術故か、はたまた、これまで吸わせ続けた魔女や魔女と間違われた人間の呪い故か、まるで魂を持っているかのように私に訴えてくる。
ベヒモスの悲鳴が聞こえてくる。
その巨体が通り過ぎた先を振り返れば、ぬめぬめとした液体が聖堂の床をぐっしょり濡らしていた。その汚らしい痕跡の向こうにて、ベヒモスは苦しそうに呻いていた。
私の斬った部位からは、今も夥しい量の血が噴き出している。
ぱっくりと避けているのか、よく分からない管が見えていた。
その所為だろう。
辺りには酷い悪臭が漂っていた。ほとんどが鉄の匂いで隠されているけれど、強烈な生臭さは人間の血しか持たない私でも分かった。
しかし、怯むようなものではない。
こんな臭気、これまで何度も嗅いできた。
魔女を殺して捌けば、これよりもっと酷い臭いがする。きっと、黒い血のせいだろう。必要な処理をすればよい香りのする売り物も、抜きだしたばかりの時は悪臭を漂わせているものだった。
そんな臭気をこれまで何度も嗅いできたのだ。
怯える必要なんて全くない。
ぬるぬるとした血溜まりで足を滑らせぬように、私は一歩一歩確かに床を踏みしめてベヒモスへと迫った。
痛みに暴れていたベヒモスが力を失う。
近づく私を睨みつけ、恨めしそうに眉をひそめる。
「罪人よ……」
震えた声が荒い呼吸と共に伝わってくる。
大きな目は見開かれたままで、弱った生き物らしく胸を上下させている。自らの流した真っ赤なぬめりの中で、ベヒモスは存分に私を軽蔑していた。
「もはや、うぬの望む未来は断たれた……」
それが最期の言葉となった。
剣が血と肉を食らう。まるで、巫女を食べた時のグリフォスのようだ。人語にならぬ悲鳴をあげて、ベヒモスはもがいた。
だが、それもまた、長くは続かなかった。
動かなくなったベヒモスの身体を、私は何度も切り刻んだ。何度も、何度も、ぐちゃぐちゃになるまで。
手が痺れても、辞める気にならない。
剣が満足するまで、私はベヒモスを壊し続けた。