4.静寂の間
耳が痛むほど静かだった。
その静けさは他でもない私が作りだしたものだ。
数十分前まで、この場所は礼拝堂だった気がする。一般の巡礼者が立ち入りを許されているような場所で、ここまで静かな事なんて普段ならばあり得ないだろう。
勿論、普段ではないからここまで静かなのだ。
普段の礼拝堂だったならば、こんなに鉄臭く生臭い空気は漂わない。床や壁、天井までもが悪趣味な色に染まることもないだろう。そして何より、人形のように骸が積み重なるなんてこともあり得ないだろう。
ここにいたのが巡礼者だったのか、一角だったのか、この有様では全く分からなかった。
魂を失った身体のひとつひとつが何処から何処までなのかも分からない中を、私はただ歩いていた。
一角の数名が塞いでいた扉へと進み、祠のある聖堂を目指す。
ここもきっとジズの社と同じように、無駄に広いのだろう。だが、ジズの時とは違い、今回は無駄に行く手を阻まれる事なんて少ないはずだ。
カリスの気配は近くにないようだし、取り逃がした一角も恐らくいない。
一瞬だけ響いた断末魔は社のあちらこちらに聞こえただろうけれど、それによって私が不都合を被ることなんて殆どないはずだ。
血で足跡をつくりながら、私は先へと進んだ。
その経緯を振り返るつもりもなく、私の目が見つめているのはいつだって先ばかり。心の底から絶望し、必死に手を伸ばした未来を勝ち取る為にも、私は進まねばならなかった。
こんな私は狂っているのかもしれない。
狂っているとしても、どうだってよかった。
罪人として罰せられるときは来るだろうか。沢山の命を散らし、真っ赤な血や肉、臓物を撒き散らしてきた大罪を償わされる時は来るだろうか。
どうせ滅ぼされるのならば、その前に一目ミールに会いたかった。
「大丈夫よ、愛しい人」
私の思考を読んだのか、グリフォスがそっと慰めてきた。
「あなたを誰かに滅ぼさせたりはしないわ」
優しい声色の裏に、何か鋭いものを感じた気がした。
だが、それが何であれ、どうだっていい。
グリフォスの導きで間違いなくミールの救出へと近づけているのならば、彼女が何を企んでいようが、真の目的がなんであろうが、どうだってよかった。
全ての空気が死んでしまったかのように静かな社。
聞こえてくるのは私の足音だけで、グリフォスの足音すら聞こえてこない。
生まれ変わった剣は今も血を滴らせ、私の身体もまた返り血だらけだった。それでも歩くにつれ血の滴りは治まっていき、私が残していた足跡も段々と形を崩していく。
そうしている内に、長い廊下は終わりを告げ、ジズの社と同じような分かれ道へと辿り着いた。
静寂であるのは何故だろう。
ジズの社では、自分の命も顧みずに沢山の人鳥が向かってきたというのに、ベヒモスの子孫たちは姿すら現さない。
そもそも、何処に隠れ潜んでいるかさえも分からない。
「逃げているようね」
グリフォスが恍惚とした表情で一方へと目を向けた。同じような分かれ道の一つ。私から見て左側より続く先を見つめ、静かに笑みを殺していた。
「あの狼が伝えたようだわ。彼女がダフネに言ったみたい。あの子はとても頭が柔らかい魔族だから、人狼を見たくらいじゃ軽蔑したりしないのよ」
まるで旧友のようにグリフォスは地巫女について語る。
これまでも巫女達に近づいて、その身体を食べようとして来たのだろう。
「では、すぐに行かなければ逃がしてしまうのでは?」
私が訊ねると、グリフォスは首を横に振った。
「大丈夫。逃がしたりはしない。どうせ、あの子たちは逃げられないの。それよりも――」
と、グリフォスは正面の通路へと視線を移した。
その先が何処に続いているのか。
私は静かに理解した。
身体の隅々に流れる衝動的な血潮の感覚が、正面の通路の先へと行きたがっていることはここに辿り着いた時から気付いていた事だった。
三聖獣の血が、この先にいる者の存在に惹かれている。
その命が、身体が、体液が、欲しい。
「行きましょう」
グリフォスが私を促す。
その言葉に引っ張られながら、私は歩み出した。
今、向かうべきはただ一つ。
大地の聖獣。魔族の守護者。大いなる獣。
ベヒモス。
恐らく愛する巫女を逃すために、わざと私を惹きつけているのだろう。私を殺し、この凶行を終わらせる為に蓄えた力を使うのだろう。
しかし、私にはグリフォスがついている。
その加護によって、純血の人間の魔女狩り剣士に過ぎない私が、空の支配者でもあった聖なる鳥ジズの全てを支配してしまったというのに。
空の聖地が崩壊した今、ベヒモスだって私の事を恐れていても不思議ではない。
それでも、その聖獣は祠を離れられず、巫女のみを逃そうという苦しい選択をした。
「あなたの華麗な姿を見たい」
廊下を歩きながら、グリフォスは言った。
「あなたが逞しい一角獣をバラバラにする姿を見たい」
歩けば歩くほど、ベヒモスの大きな存在感は強まっていく。
雄々しき存在と讃えられてきた姿を目に出来る時も、もう間もなくだろう。
幼い頃の私を指導した祭司が見ていたら、一体何を思うだろうか。もしかしたら彼は嘆くかもしれない。もしくは嘆くふりをして、内心は褒め称えているかもしれない。
三獣の聖地を参り、巡礼する事は、遠い昔に禁止されたことだってあった。
その禁止が解かれたのは、古臭い信仰を捨て切れなかった民衆を、時の権力者が拘束することに失敗したからだと言われている。
ならば、本当はこんな場所なくていい。
いらない。
「そう、ここはいらない場所」
グリフォスが私の心に同調するように言った。
立ち止まる彼女の前に、新たな空間が広がっている。私もまたその部屋を見つめ、しばしの間だけその場所に生える大樹に圧倒されていた。
聖堂と呼ばれる場所なのだろう。
本来ならば立ち入りを許された少数の者が、正面に存在する祠と、祠の主を讃える宝玉と、その後ろに生える大樹に向かって祈りを捧げる場所なのかもしれない。
そう、本来ならばここは聖なる場所。
けれど、今は違った。
誰もかれもが逃げ出したこの社の中で、大樹よりもずっと圧倒的な存在感を放つ者。
ベヒモス。
目に見えずとも、そこにいるのはすぐに分かった。