3.無垢なる者達
翌朝まで、カリスは現れてはこなかった。
その気配は完全に隠され、今、何処でなにをしているのか、グリフォスでさえも把握するのが難しいといった。
だが、私はどうでもよかった。
カリス等大したことはない。
彼女に出来る事は一切ない。それはジズの一件で証明済みだった。彼女に出来た事と言えば、カザンを連れて逃げる事だけ。
それすらも、グリフォスの前にはどうしようもなかった。
カザンが少しずつ喰われて苦しむ際も、カリスは助けに入る事すら出来なかった。あの時でさえ、そうだったのだ。力差が存在したのだ。
次はどうなるだろうか。考えるまでもない。
私はジズを手に入れ、グリフォスはカザンを手に入れた。身体が軽いのは昔以上。ジズを殺す前よりも確実に私は人間から逸脱し始めていた。
それがいい事なのか悪い事なのか、判断する力も残されてはいない。
私にはどうだっていい。哀れなミールを取り戻し、キュベレーを殺す事が出来ればどうだってよかった。
だから、何も知らない巡礼者に混じってベヒモスの社を目指す間も、罪悪感の欠片すらも覚える事はなかった。
私達を鋭い視線で見つめているのは一角と呼ばれるベヒモスの末裔達だった。
だが、私から見ればどうも彼らの警戒は甘い。
恐らく、彼らはまだきちんと知らされていないのだろう。同胞とも呼ぶべき空の聖地で何が起こったのかを聞かされてはいないのだろう。
此処にいる当事者は二人。目撃者は一人。
その目撃者は人間ですらない。彼女の話を真面目に聞くどうか、一角達の顔を見る度に私はふと考えてみた。
いや、考えるだけ無駄だった。
何故ならば、行く手を阻む者は殺すだけでいいのだから。
「ああ、ゲネシス。見て。蜻蛉の子たちよ」
ふとグリフォスの恍惚とした声が私の傍だけで響いた。見れば、社はすぐ傍だった。その入り口付近に巡礼者として数名の人ならざる者がいた。
蜻蛉の子。一見しただけで人間離れした雰囲気と愛らしさが伝わってくる。
皆、やや小柄で、透き通るような肌をしていた。
髪の色は薄く、その目の色素も薄い。だが、確実に色はついていて、ともかく恐ろしいほど儚げで愛らしい姿をしていた。
ここには複数の蜻蛉の子がいるらしい。
その内の一人は地巫女ダフネ。
その他は、ダフネに付き添ってここに身を捧げたものばかりだ。思えば、ジズの社にいた者たちもそうであったのだ。空巫女カザンと共にジズに身を捧げた弱き狐人達。斬り殺されると分かっていながらも阻もうとした彼らの姿が一瞬だけ頭に甦った。
此処にいるのは純粋無垢な者ばかりだ。
そうと分かっていても、行かずにはいられない。
引き返す気にはならない。
殺されない限り、誰も私の足を止める事は出来ないだろう。
「大丈夫」
グリフォスの静かな声が頭に響く。
「あなたを失ったりはしない」
まるでサファイアが私に言っているかのようだった。
その錯覚が、私を更に衝き動かす。この罪深い行動を正当なものであるように思わせる力がグリフォスにはあるのだ。
いや、それは錯覚なのだろうか。
これは罪深い事なのだろうか。
この世は人間の為のものだ。そう祭司からは教わった。神は人間の為の世界を約束し、人間以外の者を悪となした。
聖獣など本当はまやかしなのだ。
古い信仰が根強かった為に滅ぼす事が出来なかっただけの事。真の神は聖獣やそれに侍る巫女など認めてはいない。
そうだ。グリフォスは悪魔等ではない。
人間の神が当初定めた通りの世界を整えようとする、天使のようなものだ。聖獣などいらない。迷う必要なんてない。
そう思い至ると、身体が軽くなったように感じた。
社へと足を踏み入れると、中はジズの社と同じく、多くの巡礼者が殺到していた。だいたいは同じ構造。違うところと言えば、先程のように蜻蛉の子達が至る所をうろついている事だろうか。
巡礼者達も蜻蛉の子ばかりは恐れない。
その愛らしい姿に惑わされているのだろう。
多くの人々はベヒモスを象った偶像に祈りを捧げている。あの中にどのくらいの魔族が紛れ込んでいるのだろう。
ふと、キュベレーの姿が頭を過ぎった。
私から唯一の家族を奪っていった女の姿が。
「ゲネシス」
静かな声でグリフォスが言う。
「抑えきれないのなら、構わないわよ」
何を示唆されているのか、すぐに把握できた。
躊躇いの文字はもはや必要ない。相手の多くが魔族であると推測するだけで、十分だった。その中に幾人かの人間が紛れ込んでいたとしても、私にはもはや関係のない事だろう。
私は罪人であり、私は神の使いである。
矛盾した思いと自意識が、私の理性を大きく狂わせた。
異様な気配を感じたのだろうか。端々で巡礼者を見張っていた一角達が動き出した気がした。彼らは確かに厄介だっただろう。だが、恐れるまでも無かった。
一角の多くが私の傍へと近づくのを待ちながら、私はベヒモスの像を見上げた。
この社の何処かにいる聖獣。
奴はもう気付いているのだろうか。
一角の一人が私の肩に手をかける。それが、合図だった。