1.焦燥感
ベヒモスの呼吸が聞こえる気がした。
それはただの幻覚なのかもしれないけれど、妙に現実的で気持ちが悪かった。もっと冷静に推察するならば、付近に住まうベヒモス等ではなく、魔物達の呼吸なのかもしれない。
しかし、今の私にはベヒモスにしか思えなかった。
次なる獲物の血を剣が吸いたがっているせいだとグリフォスは言った。
鳥の町がどうなっているかなんてもはやどうでもよかった。ジズの血を吸いつくし、その末裔や巫女と同じ血を引く魔物達の血まで味わった我が剣だが、これでは本当に足りないらしい。
だから、剣が急かしているのだとグリフォスは言うのだ。
その結果が、この幻覚なのだろう。
浸れば浸るほど、私の中では焦りが生まれていく。ベヒモスの君臨する獣の町が近づけば近づくほど、この感覚は酷くなっていくばかりだった。
早くベヒモスを壊してしまいたい。
獣の町についてからも、身体の疲れに相反して焦燥感だけが強くなっていった。ミールを早く助け出したいという気持ちとは違う。
欲求を解消したいという心理にもよく似ていた。
ベヒモスは魔族を守護する聖獣だ。それだけで、殺したい気分になった。以前はまだ敬う気持ちがあったような気もするが、今はただ魔族を守護しているというだけで嫌悪感が生まれるほどだった。
魔族は魔女も含まれる。つまり、私が散々狩ってきた者達だけではなく、ミールを奪っていったキュベレーも含まれるのだ。
それだけで、殺してしまいたい。
「落ち着いて、ゲネシス」
適当に借りた宿の一室で、グリフォスは私を静かに宥めた。彼女が付き添わなかったら、身体の疲れをも顧みず、今すぐにでも社を目指しただろう。
「ベヒモスも地巫女も、逃げたりしないわ」
逃げることが出来ないのだから。
そう言って笑うグリフォスは恐らく醜く残酷な悪魔なのだろう。けれど、サファイアの姿をしているせいか、私には全く醜く見えなかった。
彼女が待っているのは巫女を食べる瞬間のようだ。
私の目にはただ撫でているようにしか見えなかったけれど、あれは食べたので間違いないらしい。喰われたカザンは苦しみ、そのまま息絶えてしまった。灰となって消えたその身体は残りかすで、力も旨味も殆どすべてグリフォスのモノとなってしまったそうだ。
ただ逃したとすれば、目に見えぬ魂くらいのものらしい。
「地巫女の名前はダフネ。若き蜻蛉の子で、とても健康的な体つきの子。殆ど諦めていたけれど、あなたのお陰でカザンに続いて問題なく手に入りそうね」
グリフォスの言葉通り、この町の者はまだ、ジズに何があったのかを知る者はいないらしく、誰もが平和そうに暮らしていた。
懸念があるとすれば傷ついたまま逃げたカリスの事だろうか。
あのまま放っておけば死ぬ事は間違いないが、万が一、人狼の言葉を真に受けるものがいれば、この平和そうな空気も一変してしまうだろう。
「巫女を手に入れれば、お前の力は戻るのだな……」
不安と焦りを抑えながら、私はグリフォスに言った。
そうよ、とグリフォスは振り返りながら答える。そのさり気ない仕草にサファイアを感じ、私はふと故郷を想った。
「全ての聖獣を壊し、全ての巫女を食らえば、私はあなたに力を貸せる。その力は必ずやキュベレーの命を枯らし、冷たい人形となったミールを救うことが出来るわ」
断言する彼女の声に揺らぎはない。
それだけで、私の心は大きく揺さぶられた。
焦るなと宥めるはずの彼女の存在が、私を更に焦らせているのだ。それが意図的なものなのか、無意識のものなのか、さっぱり分からない。
ただ、ベヒモスの大きな存在を意識する度に、わたしの身体の根底に流れる血潮のようなものが磁気に引っ張られるかのようにざわめき出す事も実感できた。
ジズだろうか。
彼の血を浴び、剣に吸わせたことが原因なのだろうか。
なんにせよ、私は早くベヒモスを殺したいと感じていた。
宿屋の薄い壁では外の喧騒が聞こえてくる。その喧騒が平和の上に成り立っていると分かった所で、何の情も湧かなかった。
此処に居るのは人間に見えるが、魔族ばかりだ。魔女や魔人ばかりだ。人間の世界に溶け込み、不幸を撒き散らし、塵の中でも苦しまない半端者ばかりだ。
キュベレーをも守護するベヒモスの何とおぞましい事だろう。
そのベヒモスを仰ぐ巡礼者達もまた、汚らわしい事には変わりなかった。
そして、そのおぞましい血を浴び、一つの秩序を壊して進む私は、まさに醜い怪物に違いないだろう。
だが、それでもよかった。醜い怪物でもよかった。
ミールを取り戻し、冷たい石から救いだせるのならば、構わなかった。
サファイアの面影を濃く受け継いだ義弟の姿。未来ある少年を思い出せば思い出すほど、それを奪ったキュベレーが許せなくて仕方ない。
だが、グリフォスは煽るだけ煽って、不用意に進む事を許さなかった。
この不満で溜まったストレスを全てベヒモスにぶつけろと言うのかもしれない。もしくは、今も何処かで生きているかもしれないカリスを警戒しての事だろうか。
いや、それはない。
あの傷は相当深かった。幾ら人狼であっても、手当てをしなければ死んでしまう。そこはケダモノと変わらない。手当てをしてくれる者など、あの孤独な人狼女にはいなかったはずだろう。
「そうでもないようよ」
私の思考を呼んだグリフォスがぼそりと呟いた。
直後、宿部屋の隅の影より荒い息が聞こえてきた。辺りは既に夜も更けている。深夜まで騒ぐ者の声も次第に眠りの彼方へと誘われる頃合いだろう。
そんな中で、獣の息遣いと眼差しはより際立って感じられた。
「生きていたのか、カリス」
私が淡々と声をかけると、その獣――カリスは低く息を吐いた。
姿が歪み、黄金の身体が服を着た人のモノへと変化する。流れるような金髪は、汗でべたついているのが見ていても分かった。だが、そんな事よりも目を引いたのは、奴の身体に巻きついているもの。
それは、包帯だった。