9.大罪人
ジズを失い、巫女をも失った聖地。
私とグリフォスが下山した時には、聖なる山の祠で起きた出来事を町の人々はもう既に知っている様子だった。
大罪を犯したあの後、カリスは闇に紛れて逃げてしまった。どうやら私にはもう人間らしい感情など残していないのだと悟ったのだろう。私もまた、カリスが煩わしいことをすれば、平気で斬ってしまうつもりだった。
逃げたのならば、逃げたのでいい。邪魔されるとはちっとも思っていなかった。
それに、町の様子は逃げたカリスが伝えたのではない。
逃げ出した巡礼者や、生き延びた人鳥達が町の者達に伝えたのに違いない。
下山した私とグリフォスを取り囲んだのが、人鳥の戦士ばかりだったのがその証拠だろう。町に住まう人間や弱々しい狐人も隠れ、人鳥の中でも力に自信のあった者ばかりが私に行く手を阻もうと集まった。
それは、有難いことだった。
何故なら、いっぺんに彼らを葬り去ることが出来るから。
ジズも、空巫女も、そしてジズの末裔の多くの若者たちもいなくなったこの町。もはや聖地でも何でもない、廃れた町となっていた。
振り返れば、人鳥達の血を引きずった私の足跡が延々と続いている。乾くこともなく、途切れることも無いこの血の足跡は、私が負った呪いを現しているようだった。
町には隠れている人々がいるはずだが、誰も追ってこようとはしない。私に殺される事を恐れているのだ。
死にたくないのならば、見つけ出す必要もない。
邪魔をしないのならば、相手をする必要もない。
沢山の恐れと嘆きを背に受けながら、私はグリフォスと共に町を去った。
向かうは、次なる聖地。三獣の一つ、ベヒモスの住まう聖なる森だ。ジズを手に入れた今、立ち止まっている時間が惜しい。私は獣を、グリフォスは供物を。それぞれ手に入れて、あの汚らわしい魔女キュベレーを葬り去らねばならない。
幸いにも、ジズの領域からベヒモスの領域まで、そう遠くはない。
歩めば歩むほど、まだ息をしている莫大な存在感を放つ者の気配を感じることが出来て、私の気は急いていった。
そして、鳥の町からもだいぶ離れてしまった後で、その時は訪れた。
「ゲネシス」
その声に呼び止められてやっと、私は立ち止まることが出来た。
辺りは夕暮れだが、いつの夕暮れなのだかもはや分かりそうにない。血を浴びて鳥の町を発ったのが、今日の事だったか昨日の事だったか、はたまたずっと前の事だったのか全く思い出せなかった。
ただ、声をかけてきた者の姿を見ると、さほど時間も経っていないように思えた。
荒野の中でぽつんと佇み、私を睨みつけている美しい女。黄金の髪を風になびかせ、獣の目と唸り声で私への軽蔑を現している。
カリス。
彼女はやはり私を止める気らしい。
「まだ殺したりないのか。ジズを殺し、次はベヒモスの元へ行くつもりなのか?」
問いただす様な口ぶりだが、こちらの心はちっとも動かない。
人鳥をあれだけ殺してきたせいだろうか。かつては警戒していた人狼という存在が、狐人と変わらないどころか、それ以下の弱々しい者にさえ思えてきた。
「こんな事はやめろ」
カリスは言った。
「三神獣を殺し尽したとしても、お前の願いは叶ったりしない。悪魔に叶えてもらったところで、お前もミールも不幸になるだけだ」
私は無言で剣を抜いた。
グリフォスは黙ったまま様子を見ている。わざわざ私に指図してくるわけでもないらしい。ただ、カリスだけが喋り続けていた。
「ゲネシス、お願いだから聞いてくれ」
人を騙す狼が何か言っている。
「今でさえ、お前は罪人だ。だが、これ以上進めば救いようのない大罪人になってしまうぞ。私はお前の破滅なんて見たくない」
サファイアを奪った者の仲間が何か言っている。
「なあ、ゲネシス。こんな事は初めてなんだ。お前の事を喰うためだけの人間だとばかり思ってきたはずなんだ。それなのに、今の私はお前を本気で見捨てたくないと思っている」
汚らわしい魔物が何か言っている。
「お前も薄々は分かっているんじゃないのか? その女に従っても、自分の願う未来はやって来ないってことを」
「カリス」
私はその美しい名を呼び捨てた。
カリスの表情に緊張が加わる。私の声と表情だけで、私の心を見透かしてしまったようだ。鋭い鼻と、鋭い目のなんと残酷な事だろう。だが、同情する気にもなれなかった。
何故なら彼女は、かつて愛する女を奪った人狼の仲間なのだから。
「説得は無駄だ」
私がそう言った瞬間、グリフォスが動き出した。
暴風のようにカリスに飛び掛かり、その身体に触れようとする。触れられればどうなるか、カリスも分かっているのだろう。狼の姿で避けながら、それでもなお、この場を離れようとしなかった。
まだ、私を説得出来るとでも思っているのだろうか。
何度も諦めさせてきたはずなのに、何度も虚しい期待を胸にやってくるのは何故だろう。
そんな疑問が浮かんでも、私の行動を遮る理由にはならなかった。
カリスがグリフォスの接近を避け、私の傍へと逃れてくる。その動きが先走って見えた時、私の身体は勝手に動いていた。
今まで、魔女狩りをしてきた時には感じたことも無い身の軽さを味わいながら、躊躇いも、慈悲も、何もかもをかなぐり捨てた私の剣の刃が、カリスの身体めがけて飛び掛かっていく。それは、確かに私がしていることのはずなのに、腹を空かせた生き物に引っ張られているような奇妙な感覚だった。
カリスを斬ったのは私。
だが、まるで他人に斬らせたような感覚。
聞いたことも無いカリスの悲鳴が聞こえた時も、やっぱり他人事のようだった。確かな手ごたえだけが私の手に残る。その感触を何度も思い返しているうちに、カリスは渾身の力で動き、流血した身体を引きずって物影へと消えていってしまった。
その様子を見つめていたグリフォスがやや険しい表情を見せた。
「逃がしたわね」
残っている血だまりを見つめ、私はまたしても現実を現実として噛み砕いた。
カリスを斬ったのは私だ。他人でもなく、事故でもない。私が私の意思で、カリスを殺すべく斬ったのだと。
事実を受け止めつつ、私は静かに答えた。
「あの傷ならば、そう長くはないだろう」
不思議と悲しいという感情は生まれなかった。
ただ、止めをさせなかったことが、気にかかっているだけなのだと自分で気付いた。気付いたところで、何も感じる事はなかった。