8.第一のパン
カリスとカザンを追い詰める事は、非常に簡単な事だった。
私には狼のような鼻もない。魔女のように気配を辿って忍び寄ることも出来ない。ただの人間の身体しか持たない私には、特殊な力なんて何もない。あるとすれば、神に等しい獣をも殺す暴力的な剣だけだ。
けれど、その剣に力を与えたグリフォスは違った。
サファイアの身体だけでこの世に存在しているはずの彼女は、ただの人間には絶対に宿らない力を沢山隠し持っていた。
気配を辿りながら案内するグリフォスに続けば、カリス達を追うのは難しくもなんともなかった。
だから、私はこうして、今、カリスに剣を向ける事が出来た。
「愚か者……」
私を見るなり、カリスはそう言った。
場所はまだ大社の中だ。何処かしらへと続く長廊下の途中だ。カザンの指示で逃げ道でも探していたのかもしれないが、遅過ぎた。
カリスはカザンの傍を離れないまま、私とグリフォスを睨みつけていた。荒々しい狼の声で私に敵意を示している。けれど、その目、その表情、その身体には、動揺が隠し切れていなかった。
まだ、カリスは戦える心境にないのだ。
「来るな、ゲネシス」
カリスはカザンの前に立ちふさがりながら吠えた。
「頼むから、罪を重ねないでくれ。その女の言いなりになってはいけない。巫女を奪われれば、この世界がおかしくなってしまうぞ」
「カリス」
私がその名を呼ぶと、ややカリスの身体が震えた。
接近を恐れているようだ。彼女にはまだ躊躇いがある。そして、もう一つ。彼女はグリフォスに勝てない。
「お前の毛皮を今も覚えている」
口から滑りだす言葉に感情は宿らなかった。
「その毛髪のように美しい黄金だった。その道の者に売れば、安心してミールと暮らせるだけの金に代わるだろうな」
カリスの動揺が深まった。
人狼が聞いて呆れる。ちっぽけな人間に過ぎないはずの私の一言にいちいち惑わされ、戦意を揺るがされているのだ。それも、己らを守護する有難い神の婢を前にして、だ。
思わず笑みも漏れてしまう。
「躊躇いも、慈悲もないぞ」
血を吸い続け、なおも飢える剣を構えながら、私はカリスににじり寄る。
「私はお前が思っているような人間ではない。だから、憐れみも配慮もいらない」
「来るな」
カリスが体勢を低くした。
だが、来ない。来る様子はない。来たとしても、大丈夫だ。相手は狼。ただの狼なのだ。カリスを殺す事は、グリフォスも望んだ事。何も間違ってはいない。間違ってはいないのだから、大丈夫なはずだ。
「来ないでくれ、ゲネシス!」
カザンの手を掴んで、カリスが逃げようとする。
だが、その前に私は地を蹴って飛び上がり、狼よりも早く動いて、カリス達の行く手を阻んだ。身体からはふつふつと血の滾るような力が湧き起こって来る。剣だけではない。今までにはなかった活力が、私の中に確かに宿っていた。
剣を向けられたカリスもまた、私の変化に気付いているのだろう。
かつて彼女に見受けられた全ての人間を圧倒するような雰囲気は、完全に消えてしまっていた。その姿に宿るものは、人間臭さを通り越え、強き者に捕食される弱々しい哀れな獣にしか見えなかった。
誇り高い人狼の見せる表情ではない。
そのくらい、カリスは怯えている。
行く手には私の剣。背後にはグリフォス。段々とその間は狭まり、カリスとカザンの逃げ場はなくなっていく。
やがて、私の剣がカリスの首筋を抑えつけた時、カザンが絞りだすように声を上げた。
「おやめ下さい」
カリスの手を離し、美しい狐人は床に膝をついた。
その目は私とグリフォスとを見つめている。
「その人に手を出さないでくださいませ」
懇願するカザンの目を見つめつつ、私は剣を握ったまま固まった。カリスの首を掻っ切ることには何の違和感も覚えなかった。どうしてだろう。どうだっていい。今まで魔女を殺してきた時と一緒だ。共に過ごした夜の思い出など、何一つ頭を過ぎらないのだから仕方がない。
カリスは震えつつも、カザンに向かって何かを呟いた。
聞き取れはしなかったが、どうも逃げるように願っているらしい。
無駄な願いだ。いや、無理な願いと言うべきだろうか。魔物を守護すべきとして存在した聖なる鳥の婢が、その魔物を、それも自分を助けようとしている者を見捨てて逃げる事等出来るわけがない。
その尊さこそが、グリフォスの期待した弱点だったのだから。
私がカリスを抑えている中で、グリフォスはゆっくりとカザンに視線を合わせた。
「手を出して欲しくないの?」
確認するように語りかけ、グリフォスはカザンの頬を撫でた。
「じゃあ、考えておいてあげる」
その言葉が聞こえて間もなく、グリフォスはカザンを抱きしめ、礼服を破り捨てた。そして、その手がカザンの柔肌に直に触れた直後、ややあって、今度はカザンが甲高い悲鳴をあげた。
じっと動かないグリフォスが、カザンから何かを奪っている。
その儀式は、カリスと私の目の前で、残酷にも時間をかけて行われた。激痛に耐えるように苦しむカザンと、それを黙ったまま抑え込んで微笑むグリフォス。
ずっと欲しかったものをゆっくりと手に入れていく悪魔の表情は、目に焼き付いてしまうほど残酷なものだった。
半裸でもがくカザンの口から、やがて己の主の名前が零れ落ちた。
直後、彼女の身体は人形にでもなってしまったかのように白く染まり、その目も輝きを止めた。動かなくなった身体を抱きしめながら、グリフォスはなおもじっと動かずにカザンの身体を撫で続けていたが、やがて、呆気なく離すと深く息を吐いた。
「美味しかったわ」
グリフォスがそう言った瞬間、カザンの亡骸は塵となって崩れ、風に攫われていってしまった。
全てを見届けてから、私はカリスの首筋から剣を放した。だが、カリスは力なく崩れ落ちるだけで、私にも、グリフォスにも攻撃する素振りは一切ないようだった。
「とても美味しくて、永遠に忘れられそうにない。絶対に、絶対に離したくない味よ」
恍惚としながら言うグリフォスを見つめながら、カリスが息を漏らした。
「……悪魔だ」
それは、人間を欲のはけ口にする魔女の所業を間の当たりにした庶民たちの嘆きに非常によく似ていた。