6.ジズの崩壊
魔物を守る聖獣。
それは人間を守護し、魔物を悪なる存在とする神でさえも、敬うべき存在と定めたと言われていた。
ジズ、ベヒモス、リヴァイアサンの三獣への巡礼は、尊いものであるのだと人間達は祭司によって教えられてきた。
だが、かつては違ったらしい。我が国の宗教をきちんと学んだ者ならばよく知っている。
かつて国をまとめる者どもが人間にとっての神を求めだした頃、三獣は異端であった。特に、ジズとベヒモスは悪魔に等しく、人間が関わるべきものではなかったのだ。
しかし、古くより大地に散在する人々は、それぞれ三獣を根強く崇拝し、それに因んだ祭りや、風習を色濃く残してきたらしい。
国という形で人々を統治し始めた権力者達も、その信仰には抗えず、次第に三獣たちは人間の宗教に上手い形で取り込まれ、今の形となった。
神獣から聖獣へ。
飽く迄も国に保護され、神の教えを純粋に信じる人間達はそう捉えている事になっているが、実質は神獣といってもいいほど崇拝している者も少なくはない。
だが、私のようにどちらでもない者も多かった。
思えば、人間を守る神も、世界を守る獣も、私にとっては等しく無能だった。
神は何故、サファイアを守ってくれなかったのだろう。神は何故、ミールを守ってくれなかったのだろう。神は何故、私をこうも苦しめるのだろう。
神はいないのだ。いたとしても、私を楽にはしてくれない。
ならば、私が従うべきは神ではない。
甲高く鼓膜が破れそうな怒声を受けながら、私は淡々と感じていた。風が起こり、私の動きを止めようとしている。けれど、獲物の身体を欲した剣が、私の身体を操っている。
悪魔に呪われた身体ならば、神に等しい怪鳥にも勝る。
かつてグリフォスはそう言った。
私が人間としての誇りや信念を捨てる覚悟があるならば、せめてミールを取り戻す手助けをしてやろうと。
グリフォスと私ならば、この運命を変えられるのだと。
つまり――。
全ての聖獣を殺し、その力をグリフォスに与えることが出来れば、キュベレー等に簡単に見つけ出し、ミールを取り戻す事が出来るのだと。
実体化したジズは魔物と変わらない。
自分より身体が大きい分、逆に狙いやすくもある。もしも爪やくちばしで攻撃を受けてしまえば一溜まりもないだろうけれど、ジズの攻撃は面白いくらいに当たらなかった。
カリスが、そして、空巫女が恐れて見守る中で、私とジズは攻防を続けた。
グリフォスによる得体の知れない力を貰い受けた私が、ジズに呆気なく殺されるという恐れはないらしい。
実際にこうして戦ってみれば、それも頷ける。
身体は恐ろしく軽く、相手が猛獣でもなく、魔物でもなく、神に等しい聖獣であるという事を忘れてしまうほど動きやすかった。
それでも私の剣がジズの命を狩れない事実に理由があるとすれば、それは私の根底に今もなお息を潜めている人間としてのささやかな畏怖の心のせいなのかもしれない。
けれど、それも段々と脈拍を弱めている事は自覚できていた。
ジズの相手をすればするほど、甲高い猛禽の声を聞けば聞くほど、そして、グリフォスに見守られながら剣を振るえば振るうほど、私の血は熱く滾り、激しい痛みと共に魂が焼き尽くされてしまうかのような異変は広がった。
もはや私は人間とは呼べない。
兆しは罪のない命ある者たちを容赦なく殺した時だろうか。それとも、カリスに敵意を告げた時だろうか。
いや、どちらでもない。
最初から理解していたつもりだった。ミールを取り戻したい一心でグリフォスの手を掴み返したあの瞬間、私の破滅は始まっていたのだ。
しかし、分かっているつもりであっても、私は分かりきれていなかった。
こうしてジズとの死闘を楽しんでいる自分に気付いてやっと、私は破滅の意味を知った。
サファイアの死を受け入れ、ミールの喪失も受け入れ、カリスの誘いのままに旅をするという未来もあったのだろうか。
いや、それはないだろう。
グリフォスに力を貰い受けなければ、私はあの道を通らなかった。あの時、あの瞬間、ジズを殺すべく突き進まなければ、カリスに出会うこともなかっただろう。
結局、グリフォスを拒んでも、私には閉ざされた未来しか残されていなかったのだ。
何故、村に残ろうと思わなかったのかと一生自分を責め続け、キュベレーという名のみを憎み続けるしかなかったことだろう。
もしくは、キュベレーにそのまま挑み、仇もとれぬまま死んでいたことだろう。
人々の崇拝するこの世界に私の希望はない。
だが、グリフォスだけは私の希望だった。憎まれようとも、大罪を背負う羽目になろうとも構わない。
グリフォスだけが、キュベレーに歯向かう力を与えてくれる指導者なのだ。
「ジズ……」
泣くような空巫女の声に重なるように、猛禽の悲鳴が聞こえた。直後、私の身体に大量の血がかかる。
「カザン……逃げて……」
赤黒く生々しい臭いに包まれる私の耳に声が届いた。紛れもなくそれは、ジズの言葉のようだった。
カザン。そう呼ばれたのは空巫女に違いない。それが彼女の名前であるのかどうか、私にはどうでもよかった。そして、彼女がその命令通りに逃げるのかどうかもまた、今の私にはさほど重要ではなかった。
神に等しいはずのその鳥は、苦しそうに呻きながら暴れ始めた。
剣に斬られた場所を庇いながら、私の身体を抉るべく爪とくちばしを使う。けれど、その動作は先程以上に荒く、見切るのは簡単過ぎた。
こうなれば、後は難しくもない。
「いや……」
カザンの震えた声が聞こえてきた。
床を蹴り、私は前へとせり出した。考えている暇もなく、感覚だけで動いていた。ジズが放った全ての攻撃は私を捕えられず、私の剣の切っ先を避けることすら出来なかった。
音、色、形。全てが淀み始める。
力のほぼ全てを剣に託し、私はただジズの身体を狙った。首を切り落とせば終わりだ。だが、何も無理して首を狙う必要も無い。力任せであったとしても、身体を全壊させてしまえば、実体化した神が生きていられるはずもない。
カリスはどんな顔をしているだろう。
カザンとやらはどんな声を上げているだろう。
何も聞こえず、何も感じない。
ぎょろりとしたジズの目が私を向いているのが見えただけだ。そして、鈍い感覚と羽毛の散らばりの後に、私の全身を赤黒い血と肉が包みこみ始めたのが分かっただけだ。
斬れば斬るほど楽しかった。
こんなに楽しいのは初めてだった。