5.虚空の闇
血塗られた世界。悪臭漂う聖域。
古来より多くの人間と魔なる者たちが崇拝してきた者の祠の前で、私はただ前を見つめていた。
辺りは静寂に包まれている。
けれど、頭に響くのは先程まで聞こえていた怒声と悲鳴と鈍く醜い音ばかりだった。そして、私の目の前にて怯えを必死に隠しながら佇む者の吐息。
一見すれば人間と変わらない。真っ白な肌に銀髪であるという特徴も、珍しいのは確かだがそれだけで人間ではないと判断するには至らない。
では、どうして彼女が人間ではないと思ってしまうのか。
目、声、振る舞い、並々ならぬ雰囲気。そしてなにより、私の傍に居るグリフォスの関心が大きいだろう。
この場所にて守られるべき存在。守られることでしか生き抜けない存在。
だが、彼女を守ろうとした人鳥達は、いまや我が足元で骸となって転がっている。全力で私の行く手を阻んだ弱々しい魔物の正体は、彼女の同胞たちだ。
彼女もまた狐人の一人。その中でも、神聖なる者。ジズの恋人。この場所で穏やかに一生を終えるはずだった女。
「空巫女……」
恍惚とした声でグリフォスが呟く。
祠の前に追い詰められた空巫女は、今もなお蒼白な顔を人鳥の骸に向けている。彼らが殺されるなんて思いもしなかったのだろう。そういう顔だ。
やがて、空巫女の視線は私へと向いた。
ここまで私がどれだけ殺戮を重ねてきたか、彼女は分かっている事だろう。そして、己の命運をも悟っているかもしれない。
だが、どんなに彼女が生き物らしく振る舞っても、私に躊躇いが生じるなんて事はあり得なかった。あり得たとすれば、この扉を守っていた人鳥さえも殺せなかったはずだ。
強き人鳥どころか、立ちふさがるしか術を持たない狐人達まで殺してしまった私に、今さら立ち止まるという選択肢があるはずもなかった。
一歩、私は空巫女へと近寄った。
剣の切っ先が真に求めているのは彼女ではない。だが、彼女を脅かせば、私の求めている者を引きずりだせる事は知っていた。
「逃げて!」
その時、声が響いた。
振り返るまでもない。カリスだ。あれほどまでに脅してやったのに、まだ私を邪魔するらしい。けれど、彼女には大した妨害は出来ない。何故なら、彼女はまだ命を落とす覚悟が出来ていないからだ。そして、私の命を奪う覚悟も出来ていない。
もう一歩、私が足を踏み出すと、周囲の空気に異変が生じた。
――来る。
直感で分かった。
言葉にする暇なんてない。何か大きなものが私の目の前に現れようとしている。
祠の中からだろうか。次元の狭間からだろうか。偉大なる空の果てよりだろうか。いずれにせよ、その怪物は愛する存在を守るために私へと敵意を向ける。
「ゲネシス、来たわ」
グリフォスがそっと告げた。
「祠の前に立ち、その剣を掲げなさい」
カリスの警戒も、空巫女の恐れも顧みず、グリフォスは私を急かした。
目に見えない睨みを真っ向より受けながら、私は祠へと近づくべくさらに歩み出した。しかし、それを空巫女は阻んだ。
「どうか」
美しい声が私を遮ろうとする。
「どうか、おやめ下さい」
弱々しく、けれど、力強い意思を伴った声。その声にかぶさるように、甲高い鳥の声が頭の奥で響き渡った気がした。
目に見えぬ存在が、何かを訴えようとしている。
恐らくは罪人となった私への侮蔑だろう。
「このまま罪を重ねようとも、あなたの望む未来は訪れません」
空巫女は私だけに言った。
「ジズはあなたを憐れんでいらっしゃいます。これ以上、穢れで身を包むのはおやめ下さい。あなたが従っている者は、あなたの愛した女性ではありません。心優しき彼女ならば、あなたの姿に嘆いておいででしょう」
ここにきて命乞いだろうか。
空巫女の姿や声は儚く美しいけれども、私が魂をかけてまで望んだ未来を思えば、その存在などに価値を感じられなかった。
血を弾き、何事も無かったかのように光り輝く元魔女狩りの剣の切っ先は、今もなおジズを呼び込みたがっている。そして背後より感じるグリフォスの視線が私の背中をずっと押し続けている。
全ては苦しみから解放されたいが為。
悪しき魔女からミールを取り戻すにはこれしかないのだ。
「さがれ」
そう言って剣の切っ先を空巫女に向けると、祠の傍の空気が淀んだ気がした。何かが怒りか恐れを感じている。
だが、私は構わずに立ちふさがる空巫女を剣で払った。刃物を恐れた巫女が下がるのを見届け、そのまま祠へと剣を掲げると、その直後、眩い光が生まれ、辺り一帯を包み込んだ。
光に包まれながら私が耳にしたのは、甲高い猛禽の怒声と、サファイアのような笑い声。
そして、光が晴れるより前から、私はその存在を意識した。大きな目が私を睨んでいる。鋭いくちばしが私の命を啄ばもうと狙っている。
光が晴れると、奴はそこにいた。
「ジズ……」
息を飲むようなカリスの声が背後より聞こえてきた。
ジズ。空巫女を愛し、魔物達の守護神という地位におさまっていた聖獣。光り輝く大きな目と、どんな生き物の皮膚をも貫く鋭いくちばしがこの目にも捉えられた。
私の何十倍、何百倍もある姿を曝し、茶色く地味だが立派な翼を大きく広げながら、ジズは力強く啼いた。
その声を聞いた途端、手に握られた剣が脈打ったような気がした。