4.血塗られた聖域
ぽたりという水の音が響く。
私がただ持っている剣の切っ先が生み出す音だ。鼻に広がるのはむせるような赤い液体と臓物の臭いだった。
もう誰も私を阻んだりはしない。
ただ震えているのか、痙攣しているのか、死体となりゆく者たちは微かに動いているようだったが、誰もがはっきりとした自我を保っていないだろう事は想像出来た。
剣を引きずりながら、私は赤くぬるぬるとした床を歩いた。
すぐ近くではカリスの吐息も聞こえる。だが、彼女は私を阻もうとはしなかった。私の傍に寄り添う悪魔の存在が怖いのだろう。
或いは、血の臭いに怯んでいる。
「なんてことを……」
掠れた声が私を責める。
その目は今度こそ私を蔑んでいるかもしれない。けれど、私にはもう振り返る気力もなかった。遮られなければそれでいい。カリスを進んで殺す気はなかった。ただし、私の邪魔をするというのならば、もう躊躇いなんて生まれない。
無力な狐人を駆逐しているうちに、私の中で何かが変わった気がした。
これまでは、こうも無力な相手の命をただ奪うだけなんてことはなかったように思う。言葉も通じ、人間と変わらない姿をした魔物達を殺すのは、やはり気が重たかった。
けれど、今、私は血生臭いこの通路を歩きながら、ちっとも後悔していなかった。
私が望む事はただ一つ。それが叶うのならば、どんな色、どんな臭いに心身を染めたとしても構わない。
たとえ永遠に恨まれようとも、それに対する恐れは一切生じなかった。
「さあ、行きましょう、愛しい人」
サファイアの声で、サファイアの姿で、グリフォスは私を促した。もう戻ってはこないはずのその温かく心地よい幻に導かれるままに、私は歩きだした。
かつての寂しさを思い出せない。
魔女狩りの剣を罪に浸せば浸すほど、私の中の現実が歪んでいってしまっている。
「行くな……」
嗚咽と共に狼の動く気配がした。
黄金の残像を引っ張って、カリスは私の前へと躍り出た。悪魔の脅威や、むせるほどの赤黒い臭気への怯えを押し殺してまで、彼女は行く手を阻んだ。
震える眼が私を見ている。
己もまた傍に転がる骸と成り果てる可能性を感じてはいるのだろう。しかし、カリスが逃げる様子は一切見受けられなかった。
そうまでして何故、彼女は私を止めたがるのだろう。
分からない。どうしても分からない。狡猾な人狼の、汚らわしい魔物の考える事なんて分かりたくもない。
「ゲネシス、頼むから聞いてくれ」
震える声が私に向けられる。
その姿は狼などではなく、私やサファイアと何も変わらない純血の人間のようにしか見えなかった。
塵で動けなかった私を食う為に近づいてきたあの時と同じ。
誰が見ても美しく、非の打ちどころのない姿。眩い黄金の髪は、汗と埃で乱れ切っている今であっても輝かしい。
女として、ではなく、生き物として、カリスは美しかった。
美しい、けれど、それだけだ。
「殺しなさい」
グリフォスが私に命じた。
「心配しないで、ただの狼よ。あなたを心から愛し、あなたが心から愛した女を残虐に喰い荒らした下種と同じ血を引くケダモノに過ぎないわ」
そうかもしれない。少なくとも私にとってはそうであったはずだった。
カリスに出会う前は、人狼相手に真面目に取り合おうなんて思いもしなかった。そんな事をするのはただの愚か者であり、世間知らずの向こう見ずだ。
相手は魔物。人間を騙して襲う悪しき者。
先人たちが何故、魔なる者を排除すべく立ち上がったのかを考えれば、カリスに感じられる人間らしいと思われる部分が幻に過ぎない事なんてすぐに分かるではないか。
そうだ。
私が従うべきはカリスではない。彼女は人間ではないのだから。
分かっている。分かっているはずなのに。
「退け、狼」
赤い液体を弾いて汚れ一つない白刃を輝かせる剣を突きつけつつ唸ると、カリスは目を見開かせた。
名を呼ばない事に動揺しているのだろうか。
いや、無駄な推察は必要ない。相手は人の血を継がない魔物。神の守護から外れ、この世の汚物に等しい塵の中でしか安息を保てないような劣等種だ。
サファイアの、愛する妻の無念を想い起こさなくてはならない。
死霊となって甦った彼女を思えば、こんな魔物の雌の言葉を真面目に受け止めていいはずがないとすぐに理解出来るはずだ。
だから、このまま斬り殺してしまえばいい。
それなのに。
「お前も斬り殺されたいのか」
睨みつけるこの目を、純粋な獣のような目が見つめてくる。
まるで、人里にて可愛がられる犬のようだ。いや、そんなはずない。人間に寄り添う事の出来る家畜と、人間を虐げることしか考えていない魔物とを一緒にすることは、神への冒涜である。
――神?
ふと、思考が止まりかけた。
神とは何だっただろう。人間のみを守る神。彼は私の行いをどう捉えているのだろうか。
聖獣は尊重すべし。神はそう言葉に残した。しかし、それは神の信仰をもってしても旧来の厚い信仰の壁を崩せなかった為だとも学んだことがある。
では、神は私をどう見ているだろうか。罪のないジズの末裔と、罪のない神官の狐人達を殺した私をどう見ているだろうか。
答えは簡単だ。
彼らは人間の血を引いていない。
「退け、狼」
奇妙な事に、我ながら魔物のような唸り声だったように思えた。
ともあれ、私の心の中にて自分に対する全ての友愛の情が消え去っている事に気付いたのだろう。カリスは困惑したまま、ゆっくりと身を引いた。
殺しなさいというのがグリフォスだ。
それでも、もしも邪魔をしないのであるというのならば、私は相手をしない。しかしそれは、もはやカリスを殺したくないという理由からではない。時間が勿体無いからに過ぎない。
もしも私に牙を剥くのならば、私は躊躇いなくこの美しい狼を毛皮にしてしまえる。
死にゆく彼女を前に、共に語らった日々を思い出した所で、きっと少しも悲しくは感じないことだろう。
さて、不思議なものだ。
私は少し前まで、カリスの事を意識していた気がする。彼女に死んでほしくないと思っていた事もあった気がする。まるで人間の友に抱くような感情を、カリスに対しても抱いていたような気がしてならない。
あの感覚は何処へ行ってしまったのだろうか。
淡々とそう思いながら、私はカリスの視線を無視して先へと進んだ。