1.空の道にて
目が覚めるとすぐに私は目的地へと向かった。
グリフォスの言葉を聞いていると、じっとしている事等不可能だったのだ。こうしている間にも、ミールの魂は石に閉ざされている。キュベレーという卑しい魔女の性のはけ口にされているのだと思うと怒りで狂ってしまいそうだった。
「ミールはあなたを待っているのよ」
道中、グリフォスは常々私にそう告げた。
サファイアの姿でミールを助けてほしいと言われていると思えば、私にはもうそれを拒む術など残されはしない。
引き返す等、私の選択肢にはなかった。
勿論、私のそんな内心を共に進む巡礼者たちやそれを見守る人鳥共が分かっているはずもない。だが、ただ一人……いや、ただ一匹だけが、私が呼びこむ不吉な風を知り、阻むべきと判断している者はいた。
――カリス。
彼女は常に私を見張っているらしい。だが、その姿は人間らしきもののままで、本性を易々と曝す事は不可能のようだ。
それもそのはず。
カリスが私を阻むと言うことは、下手をすれば、人狼が人間を襲う場面にしか見えないだろう。どんな背景があったとしても、人狼が人間を襲うという状況は、人狼が悪であり人間が善であるという思い込みが付きまとうものだ。
正当な理由で人狼が本来の姿で悪人を取り押さえようとしたとしても、人間であれば思わず悪人の方を手助けしてしまうだろう。そのくらい、人狼というものは悪と思われがちなのだ。その現実をカリスが分かっていないはずもない。
だから、カリスはその姿を見せたとしても、常に私を見張るに留まり、目立った動きを見せる事はなかった。
それでも、グリフォスはカリスの姿を見る度に警戒していた。
邪魔される事を恐れているのだ。
もしくは私が殺されるのではないかと怯えているのかもしれない。私も同じだった。彼女は魔物。それも、決裂を言い渡した相手なのだ。幾度となく忠告を破ってきた私に、腹を立てていても不思議ではない。
だが、その反面、私はやはりカリスの身を按じていた。
彼女と語った夜の記憶が積み重なり、人間を騙った親しげな顔とそれに浮かぶ親しげな表情がどうしても頭に焼き付いてしまっている。
こんな気持ちは不思議だった。
ミールを救うために突き進む事は出来るのに、どうして私はカリスを殺す決心がつかないのだろう。
「そろそろよ、ゲネシス」
歩み続けるうちに、グリフォスがようやくそう言った。
見れば、大社はすぐそこだった。あの中の何処かに祠があり、ジズがいる。グリフォスはそう言っていた。ジズの姿は凡人には見えない。地上でその神々しい姿を見ることが出来るのは、ジズの血を濃く引いている者か、ジズに付き慕った空巫女の生まれ変わりだけなのだという。
しかし、グリフォスは違うという。
彼女は見えるというのだ。この世のあらゆる透明なものが不透明に見えるのだという。また、そんな彼女に力を借りた私にも、ジズの姿は見えるのだという。
大社を眺めながら、参拝者の内の数名が感動を言葉にしている。
その全てが人間にしか見えなかったが、グリフォスによれば中には多くの魔物が紛れ込んでいるそうだ。そういえば、カリスもかつてその様なことを言っていた気がする。魔物を守護する獣の聖地であっても、この場で人間ではない事を堂々と主張できるのは人鳥だけなのだ。
飽く迄もここは、強大な神の支配する人間の世界なのだ。
大社を眺めながら、私は少しずつ鼓動が高まる事を自覚した。所持している剣までもが緊張している気がした。グリフォスもまた同じだ。己の力を取り戻すという目的に、一歩近づこうとしている興奮だろう。
けれど、そんな私達の内心に気付く者なんて誰もいなかった。
聖獣の血を引いているはずの人鳥だって、私の心やグリフォスの正体に気付けるほど崇高なわけではないのだ。
気付いているのはカリスだけ。
だからだろう。
まだ巡礼者が数多くいる中で、カリスは堂々と近づいてきた。我々が大社に踏み込む前にと焦ったのかもしれない。剣を抜くべきかと思われたが、人ごみの中騒動になれば面倒だ。それに、カリスは暴力的な手段に出るわけではないようだった。
グリフォスの睨みを受けて、カリスは私との距離を少しだけ取って立ち止まった。
じっと見つめられながら、私は先に口を開いた。
「敵とみなすと言ったのを忘れたか?」
私の問いにカリスの視線がやや泳いだ。
「斬りたければ斬ればいい」
吐き捨てるように言って、カリスはグリフォスをちらりと見つめた。
「悪魔を連れこむ馬鹿を見逃すよりかはずっとましだからね」
挑発的なカリスの言葉にグリフォスがにっこりと笑んだ。
「あら、ゲネシス。この子、殺されてもいいんですって」
穏やかに言うその声は私からしても恐ろしいものだった。散々邪魔してきたというカリスに対しては何の情もわかないのだろう。或いは、そもそも情をわかせるような存在ではないのかもしれない。
私は静かに考えを引っ込めて、カリスに言った。
「斬りはしない。ここは聖地だ。不用意に血を流す場所ではない」
そんな私の言葉にグリフォスが目を細めたまま、私の表情を窺った。まるで、私の心を覗きこんでいるかのようだ。私の言葉の歪さが気になったからだろう。
だが、やがて視線を戻すと今度はカリスをじっと見据えた。
「カリス」
グリフォスは歌うようにその名を呼ぶ。
「あなたはゲネシスにつまらない怪我を負わせて、血の穢れを厭う見張りの人鳥共に町まで送り返させるつもりでしょう?」
すらすらと述べられたその言葉に、カリスの表情が硬くなった。図星だったのだろうか。私の命を奪わずに邪魔するとなれば、確かに考えられた策かもしれない。
けれど、悪魔を前には全て見通されているようだった。
グリフォスは含み笑いをして、そっと告げた。
「あなたに触れるのは、とても簡単な事なのよ」
その一言で十分だった。
グリフォスに促されて先へと進む私を、カリスは引き留めることが出来なかったのだ。彼女の動きを鈍らせるのは、「触れる」という言葉だろう。
カリスは知っているのだ。グリフォスに触れられるという事がどういう事なのか。
どんなに恐ろしい魔物も、どんなに恐ろしい悪人も、グリフォスに触れられるだけで力を亡くしてしまう。力ある者は力を奪われ、知恵ある者は知恵を奪われ、魔力ある者は魔力を奪われる。グリフォスは度々その能力で私を守った。奪った力は自分のものとなり、一時的には操れるのだという。私もまたグリフォスに触れられれば剣を扱う能力も、勘も、気力も全てを失ってしまうという。
そんなグリフォスの厄介な性質を知っている。知っているせいで、カリスは私を止められない。それは、生き物としては当然のことだった。
「カリス」
グリフォスが振り返り、傍観しているだけの彼女に声をかけた。
「止められるのなら、止めてみなさい」
その言葉に、獣の目が大きく揺らいだ。