9.最後の警め
夜も更けていき、着々とその時が近づいて来る感覚が身に沁みる。
この町に居る誰もがさほど遠くない未来について知らずに過ごしているのだと思うと、何だか可哀そうにもなってくる。だが、その憐れみは戯れに過ぎず、だから止めよう等とはちっとも思っていない事も自分で分かっていた。
この場所に住まう者の半数は人鳥。ジズの血を引く彼らは、その己らの始祖の力を盲信し、自らを絶対的強者だと思い込んでいるらしい。会話せずともそんな印象がはっきりと伝わってくる。きっと、ベヒモスやリヴァイアサンの子孫達も同じようなものだろう。
確かに、彼らは力関係の上で頂点に居るといってもいい。
聖獣の血を引いた為の恵まれた力と知性は、当り前だが全ての人間を凌駕し、更には魔物にさえ勝ると言われてきた。
生まれた時から天敵なんていない彼らが多少なりとも気が緩むのも当然だろう。
だが、その気の緩みを感じる度に嗤う者はいるのだ。私ではない。私ではなく、常に私の傍に潜んでいる死霊の事だ。
確実に終わりはやってくる。
私は確信していた。この企みは成功してしまうだろう。それも、沢山の血と嘆きを生まれ変わった魔女狩りの剣に吸わせる事となって。
「全てはミールの為に……」
小さく呟いた時、物影が蠢く気配があった。
とっさにグリフォスかと思ったが、どうも違う吐息が聞こえてくる。そう広くない部屋を見渡したところ、すぐに違和感のある場所は分かった。窓から差し込む月光の一番届きにくい場所に彼女はいる。
恐らく、どこからかグリフォスも見つめていることだろう。
「カリスだな」
私の声かけに、カリスはあっさりと認めるように姿を現した。
黄金の髪に荒々しい目。怒りに近い感情を宿しているように見えるが、その目には初めて出会った時に感じたような殺気は含まれていなかった。
「人間……」
恨むような声でカリスは口を開いた。
「どうしても、そのまま行くつもりか」
「またその話か」
「どうしても巡礼したいのならば、日を改めろ。悪魔と共に行っては駄目だ」
カリスはそう言って悲しそうな顔をした。
勝手に侵入した事は、もはやどうでもいい。ただ、カリスが私とグリフォスとを引き離したがる度に、影の奥でグリフォスが苛立っている気がした。そもそもグリフォスはなんと言っていただろう。カリスの事を邪魔だと思っているのは間違いないのだ。
影の奥よりグリフォスの動く気配を感じて、私は息を飲んだ。
「カリス、お前の指図は受けない」
毅然とした態度で、私はカリスに言った。
「説得は無駄だ。不必要に傷つきたくなければ、今すぐ此処を去れ」
――頼むから、逃げてくれ。
そんな思いがあることに自分でも気づいていた。
武器も持たない人間が人狼に勝てるはずはない。サファイアだってろくに抵抗も出来ずに死んでしまったはずだ。
普通ならばカリスは私の心配など不要な立場にある。
けれど、今は違う。私の影に潜んでいるグリフォスという悪魔は、死者の器を借りてこの世にしがみついた気味の悪い存在なのだ。
グリフォスならばカリスだって好きに出来てしまうかもしれない。
そうだとして、私は、カリスに死んでほしくないと思っているのだ。これは、罪深い事でもあった。生まれてこの方、人狼は悪であるという教えの元に育ってきたのだ。その上、人狼は我が婚約者を喰い殺し、憎むべきものとなったはずなのだ。
カリスはその人狼の一匹に過ぎない。
本来ならば、庇うべきではないはず。それでも、私はこのカリスという人狼を守りたいとさえ思っている事に、我ながら驚いた。
いつの間に私は、この狼にこれほどまでに肩入れするようになったのだろう。
「ゲネシス」
名を呼ばれ、私は我に返った。
カリスの眼差しに闘志が現れる。その荒々しい視線の先にいるのは、サファイアの姿をしたグリフォスだった。私の名を呼んだのは、グリフォスだった。
「その人狼に惑わされては駄目」
カリスを恐れることなくグリフォスは言った。
「その人狼だって、あなたの知らないところでは、罪のない人々を騙し捕え、残酷にも喰い殺しているのよ」
その言葉が突き刺さる。
そうだ。忘れてはいけない。カリスは最初、塵で満足に動けない私を喰い殺すために近づいてきたのだ。そうならなかったのは、塵の中でも抵抗する私を見てカリスが気紛れを起こしたからだ。
カリスは人間を食らう。その為ならば他人を騙す事も厭わない。
いらぬ罪悪感を植え付けてミールを諦めさせようとしているのも、私が絶望する姿を見て面白がっているだけとも考えられる。
そうだとすれば、カリスはミールにとっても悪人だ。
「人間……」
縋るようにカリスが私を見つめた。
私の表情の変化に気付いたのかもしれない。段々と躊躇いが薄れてきているのが自覚できた。気付けば私は寝台の横に転がる剣へと手を伸ばしている。その行動を見て、カリスは目を見開かせた。
「私を殺す気か……」
演技ではなさそうだ。
驚愕を孕んだ美しい女の表情に私の視線が吸いこまれていく。もしかしたらカリスもまた、私との関わりで人狼らしさというものを失ってしまったのかもしれない。
だが、そうだとしても、今のカリスは私にとって邪魔でしかなかった。
「カリス」
鞘より剣を抜き、私はカリスに近づいた。
「これより先、お前は私の敵とみなす」
宣告する私の目を、カリスは凝視する。
驚きを現したままの目。放心していると言ってもいい。睨みあうのではなく、ただ見つめ合うだけの私達の姿を、傍よりグリフォスの冷たい視線が捉えていた。
やがて、カリスの口が微かに動き、言葉が漏れだした。
「ゲネシス……」
それは、初めて彼女が口にした、私の名だった。
それ以上、カリスは何も言葉を発さずに、力なく項垂れると水に溶ける泥のように影の中へと吸い込まれて、姿を消してしまった。
グリフォスは黙ったままカリスの消えた影を見つめ続けていた。
――ゲネシス。
沈黙の中、カリスの残した言葉だけが私の頭の中に余韻をもたらしていた。