8.凶事の予感
鳥の町に着いた私を最愛の亡き妻の姿をした女が導く。
その光景は傍から見れば何の変哲もない旅人でしかなかっただろう。そんな私達の姿を何処からかカリスは見ているのかもしれない。
そうだとしても、人目の多い町中で、目立った行動は取れやしまい。
鳥の町には普通に人鳥という魔族が暮らしている。他の町ならば迫害されるのが魔族であるが、ジズの血を直に引くという人鳥ならば話は別だ。魔族の一種である魔女を獲物としか見なさない魔女狩りの剣士であっても、人鳥を目にすれば多少なりとも敬いの心を思い出すものだった。
だが、今の私にはそんな感情が芽生えもしなかった。
私の目にはジズしか見えていない。町を見下ろす聖なる山の頂近くに、ジズの祠はあり、祠を守るように社があるのだという。一度も行った事はないが、常に巡礼者がいるそうなので迷う事はないらしい。それに、そうではなくとも私にはグリフォスがいる。
町の一角より、私はグリフォスと共に山を見上げた。
死人に取り憑きながらこの世に縛られているにも関わらず、グリフォスにはこの山を登るのはそう難しくないらしい。人狼のカリスと同じくらい、移動は簡単であるそうだ。
だが、私はそうではない。
生きている人間として存在する私は、この山を登るのに時間がかかる。私が死ぬと言う事はグリフォスにとっても不利益をもたらす事なのだろう。そうだと分かっていても、私の身を労わるグリフォスの言葉が、死んだはずのサファイアからの言葉にすら感じられてしまうことが苦しかった。
山を見上げる私の耳に、遠くより猛禽の声が届いた気がした。
ジズは聖鳥であると同時に怪鳥であるという。
もしも神の経典がリヴァイアサン以外の聖獣であるジズとベヒモスを聖獣として認めていなければ、私もそれを怪鳥として教え込まれてきただろう。
実際にはそうではないから、こうして人間にも町が開かれている。
鳥の町をうろつくのは人間の姿をしている者ばかりだった。そうでないと分かるのは人鳥のみ。しかし、そんなわけはない。ジズが魔物の守護者である以上、ジズを礼拝する者にも魔物が潜んでいるはずなのだ。
それでも、その正体を堂々と明かさないのは、彼らが人間に敬意を払っているからなのだと魔物達は主張しているらしい。カリスはそう言っていただろうか。
彼女もまたこの町の何処かに潜みながら、私を見張っているのだろう。
この町に辿り着くまでも、彼女は度々私の前に現れては説教を続けた。暴力に物を言わせる事は一切なく、ただ言葉だけで責めてくるところが魔物らしくない。
カリスは私の足を止めたいらしい。
しかし、私は何度でも言った。
私を止めたいのならば、力で説得する以外にないのだと。もちろん、私の足元の影にはいつだってグリフォスがいるらしかった。もしもカリスがその言葉に煽られて飛び掛かってくるような事があれば、グリフォスが黙っていなかっただろう。
それを分かっている為なのか、はたまた違う理由の為なのか、塵が降っている時でさえも、カリスが私を襲ってくると言う事は無かった。
――私の声は、どうしても届かないのか……。
頭の中で数日前に聞いたカリスの言葉が甦る。
その視線、その口調、その表情は目に焼き付いてしまって離れない。彼女の言葉が全く響かなかったわけではなかったらしい。あの日以来、進めば進むほど、私の頭の片隅で彼女の声が響き始める。
それでも、私はミールを取り戻したい。
取り戻す方法はこれしか知らないのだ。
「――巡礼、か」
町の外れにある古びた宿屋の一室で、私は一人呟いた。
グリフォスに目を付けられて以来、この言葉にどれだけ誤魔化されてきただろうか。明日より行われる事は、巡礼などという崇高なものではないことぐらい、私だって分かっていた。他でもない、グリフォスに直接、何をすべきかを教わっていたのだから。
「怯えているわね、ゲネシス」
誰もいないはずの部屋の何処からかサファイアによく似た声だけがした。
グリフォスが何処に潜んでいるかは分からない。けれど、彼女は間違いなく私のすぐ傍にいるようだった。
「そうかも知れない」
私は答えた。
サファイアと取りとめも無い会話をしていた頃の記憶が一瞬だけ甦った気がした。懐かしく、もう戻らない過去の当り前だった幸せ。
それを奪っていった人狼の顔すら、私は知らない。
「緊張しなくていいわ。わたしがついているもの」
サファイアの微笑む顔が頭に浮かんだ。
けれど、喋っているのはサファイアではない。それだけは頭に何度も刻んでおかなくては、どうかなってしまいそうだった。
グリフォス。彼女がカリスに悪魔と呼ばれている意味が分かる気がした。
少なくとも私にとっては、ミールを取り戻す術を与えてくれる神のようだが、救いようのない破滅へと導く悪魔でもあった。
「カリスはきっとあなたの邪魔をするでしょうね」
グリフォスはそう言って、やっと姿を現した。
殺風景な安部屋の窓辺の影に潜んでいたらしい。青い目がこちらを見ているが、その輝きだけは生前のサファイアが見せた事もないくらいに輝いていた。それだけでもグリフォスが人間離れした力を有している証拠足り得る姿だ。
私が心底惚れたその顔立ちがそっと笑みを浮かべる。
「あの人狼は殺してしまった方がいいわ」
穏やかな声で、残酷な言葉を躊躇いも無く吐きだす。
「このサファイアを殺したのも人食いの人狼。そしてカリスも人間を食らう事に躊躇いすら感じない人狼なのよ」
目を細めて、グリフォスは言う。
「サファイアの霊魂の為にも、人狼は殺しなさい」
人食い人狼。
紛れもないサファイアの姿でそんな事を言われて心が揺り動かされないわけがない。すぐに返答する事も出来ず、私はただカリスの姿を思い浮かべていた。
躊躇っているのは、何もカリスが美しいからではない。
美しい姿をした魔女だって、これまで仕事と割り切って殺せてきたのだ。魔女狩りの剣士の中にも、美しさに心を奪われ仕事に支障をきたす輩はいるが、私はそんな類の者ではないのだ。
それなのに、何故、カリスを殺す事を躊躇っているのだろう。
「可能なら、そうしよう」
結局、私はそんなあやふやな返答しか出来なかった。
グリフォスはそんな私をどう思ったのだろう。どう思ったにせよ、それ以上彼女が私に何かを言う事はなかった。