【20】
救急車のサイレンが耳に届いた。どんどん近づいてくる。
稔は不安に胸を焦がしながら鳥居の見える位置で待っていた。そこへ、石段を登ってきた文司が姿を現した。ふらふらになりながら鳥居に向かって歩いてくる姿に、思わず声を掛ける。
「樫塚!」
文司が顔を上げた。
「倉井……」
ほっと息を吐きながら、震える手に持った本を差し出してくる。
「これを……頼む……」
よろよろと鳥居をくぐってこちらに向かって歩いてくる。その文司の背後に、ぼうっと、湯気が立つように白い靄が沸き起こった。いや、靄などではない。らんらんと、光る目が文司を見ている。妄執を漲らせて、獲物を見ている。
稔の目にははっきりと、自分勝手な欲望に囚われて悪霊と化した少女の姿が見えた。
「樫塚!」
稔は咄嗟に文司に向かって駆け出した。少女の姿がゆらっと揺らいだ。靄のような少女が、文司めがけて飛びかかってくる。稔の脳裏に竹原の死因が蘇った。
稔は文司の腕を引っ張り自身の方へ引き寄せた。文司を背中に庇うようにして、自分が前に出る。無意識にそうしていた。
目の前に、霊の手が迫っていた。実体のない少女の手が、稔の胸元に突き入れられた。
瞬間、氷水を注ぎ込まれたように心臓が縮み上がった。一瞬、息が止まる。冷たい感覚は痛みとなって、心臓がじくじくと痛み不規則な動き方をして稔の息を乱す。
胸を押さえて倒れ込みながら、衰弱している文司だったら危なかった、と稔はどこか冷静に考えた。
「倉井!」
地面に膝をついた稔に、文司が駆け寄ろうとするが、稔はそれを制して護摩壇を指さした。
「持って行け……っ、早くっ」
咳き込みながら言うと、文司は寸の間逡巡したが、すぐに身を翻して駆け出した。稔も胸の痛みを堪えて立ち上がり、文司の後を追った。
このまま、文司の手で赤い本を火にくべれば、すべて終わる。後は黒田が始末してくれるだろう。それでこの悪夢は終わる。日常に戻ることが出来る。
だが、少女の霊は再び文司に躍り掛かった。
「っ樫塚!避けろっ!」
稔の叫びに、文司が咄嗟に身をかわす。体には当たらなかったものの、掴んでいた本が弾き飛ばされ地面に落ちた。少女の霊が、ニヤリと笑った気がした。
その目が地面に落ちた赤い本に向かうのを見て、稔の背中がさわっと総毛立った。
少女が本に手を伸ばすのを視界に捉えた瞬間、稔は弾かれたように走り出していた。
いけない。あの本を渡してはいけない。
あれは、この世にあってはならないものだ。
稔は倒れ込むように地面に身を投げ出して、少女の手が届く寸前に本を掠め取った。
少女が怒りで目を光らせ、稔に向かって突っ込んでくる。だが、稔に手を掛ける寸前で、耳障りな悲鳴を上げて少女がのけぞった。
厳しい顔つきの黒田が、ゆっくり歩いてきて稔の前に立った。
「行け」
稔と文司に短く命じると、黒田は少女を睨み据えた。
稔は立ち上がって護摩壇に向かってまっすぐに走り出した。本を持った腕を大きく振りかぶる。
「樫塚もっ、竹原も……っ」
燃え盛る炎の中に本を放り投げて、稔は叫んだ。
「死んでもお前のものにはならないんだよ!!一人で勝手に死にやがれっ!!」
本が、火に飲み込まれた。
背筋をぞっとさせる叫びが辺りに響き渡った。
振り返ると、少女の姿が火に包まれていた。
恐ろしい光景だった。白い靄のようだった少女が、火に焼かれて徐々に黒い消し炭のように変わっていく。
もがき苦しんで空中をのたうち回る姿に、稔の脳裏に昔お寺で目にした地獄絵図が蘇った。
黒い体がぼろぼろと崩れ出し、少女が断末魔の叫びを上げた。
終わりだ。
渡辺早弥子の妄執は、これで断ち切られる。これでもう、誰も犠牲にならない。
その時、のたうち回って苦しんでいた少女がぴたりと動きを止めた。
次の瞬間、火に包まれた少女がものすごい勢いで文司めがけて突っ込んでいった。
「いかんっ!」
黒田が叫んだ。立ちすくむ文司に、炎の塊となった少女が迫る。
真っ黒い炭のような腕が振り上げられるのを、文司は呆然と見上げた。
だが、振り下ろされたその手は、文司に届く寸前で掴み止められた。
文司を庇うように立ちはだかった少年が、少女を睨み据えていた。
(竹原……)
その正体がわかったのは稔だけだっただろう。文司は突然現れた少年の背中を唖然としてみつめていた。
竹原に静かに睨みつけられた少女が、苦悶の呻きを上げて身を捩る。黒い消し炭のような体が、ぼろぼろと崩れ出した。
少女は叫びながら気が狂ったように腕を振り回した。何とかして文司を道連れにしようとしている。
その醜い妄執に囚われた魂が、どんどん崩れて灰と化していく。一際、耳障りな悲鳴が空気をつんざいた。
ぼろぼろと、ぼろぼろと、下半身が、上半身が、崩れて、灰になって、消えていく。
頭の形が崩れ、悲鳴も途切れた。最後に残ったのは、それでもなお文司を掴もうと開かれた手。だが、それもすぐに崩れ出す。
文司に取り憑き苦しめた白い手が、真っ黒な燃え滓になって崩れ消える。
後には何も残らなかった。
稔達が呆然と見守る中で、竹原はゆっくりと振り向いて文司を見た。そして、にっこりと微笑んで、次の瞬間にはふっと姿を消していた。
神社の境内に、静寂が戻ってきた。
(終わった……全部……)
稔はほーっと息を吐いて肩から力を抜こうとした。
ちょうどそのタイミングで、ピリリリリッと場違いに軽快な音が響き渡り、稔と文司は文字通り飛び上がって驚いた。心臓が一瞬、止まった気がする。文司がわたわたと危なっかしい手つきでポケットから携帯を取り出した。
「あ…、う、あ……」
手も震えているし、舌の根も噛み合っていない文司の様子を見かねて、稔は彼に近づいて携帯を取り上げた。稔の手も震えていたが、文司よりは随分マシだ。
「……もしもし」
『あーっ、倉井?倉井か?樫塚は無事か?今、病院なんだけどよ、目を覚ました石森が「樫塚はどうした?」ってうるさくてよ。治療中だから大人しくしろって医者に言われてんのに聞きやしねぇ。そっちはどうなってんだ?』
聞き慣れた友人の声に、稔はふーっと息を吐いて脱力した。ちらりと文司を見やると、心細げな表情と目が合う。気取った優等生の面影が消え去った小さな子供のような顔つきに、稔は小さく吹き出した。
「……こっちは終わったよ。樫塚も無事だ」
もう大丈夫。赤い本は燃えた。渡辺早弥子の妄執も崩れた。竹原も、笑顔で消えた。解放されたんだ。きっと。
『わかった!後で詳しい話聞かせてな!』
「やだよ。とっとと全部忘れたい」
こんな怖いこと、記憶に留めたくはない。「じゃあ、明日な」と告げて、通話を切り、稔はふーっと息を吐いて文司を見た。
顔色は青いが、さっきよりは少し落ち着いている。
立って歩くことは出来るだろう。よし。
「樫塚、立て。帰るぞ」
「え……?」
「すいません!今日はこいつ弱ってるんで連れて帰ります!また今度、お礼に来ますんで!」
早口で叫んで、稔は無理やり立たせた樫塚を引きずるようにして鳥居の方へ歩き出した。
だが。
「待て」
がっしりと、肩を掴まれて、稔はごくりと息を飲んだ。ああ、やっぱり逃げられなかった。
稔はぎこちなく振り向いた。
黒田が満面の笑顔で立っていた。




