後編
入学式の朝、なんとなくそうなのだろうなと思っていた事が現実になった。
彼の進学先は私と同じ高校で、選んだ理由を尋ねると母親の出身校だとの事だったが、それを確かめる術を持ってはいない。付け足すように言われた『君と同じ学校だからってのもある』の方が、本当の理由なのだと思っている。
学校に着けばクラスまで一緒だった。中学からの親しい友達である真美子さんが同じクラスになったのも嬉しかったし、幼馴染なのだと紹介した彼を好意的に受け入れてもらえてホッとした。
中学からの持ちあがりが八割を占めるので、三条君の知り合いは私しか居ないようだった。もちろん校舎や特別教室棟は中等部と分かれているので、私だって何処に何があるのかを全て把握しているわけではないけど、案内できるところも多いので放課後に少し回る約束をしていた。
式典が終わって教室に入れば、直ぐに担任の先生が現れて自己紹介が始まる。
私は当たり障りのない自己紹介で済ませたのだけれど、三条君の自己紹介にはクラス中が驚いた。
「三条佑斗と言います。中学は公立の新里中で、書道部に入っていました。幼い頃に両親を亡くし祖母と暮らしていましたが、訳あって今は独り暮らしをしています。出来ればバイト等もしたいので、放課後の付き合いが悪くなるかもしれませんが、よろしくお願いします」
家庭の事を自己紹介で話す子を始めて見たので、事情を知っている私もビックリしたし、周りではヒソヒソ話を始める子もいた。
大学付属の中高一貫校なので、レベルも高ければ掛かる費用もそれなりに高く、優秀さも必要だけれど裕福さが求められる学校だと思う。実際、自営業の子はほとんど居なくて、父親は大手の会社で役職についているって子が多い。
そんな中でのあの挨拶は、もしかすると色眼鏡で見られる材料になってしまうかもしれない。
「柏木さんって、三条君と付き合っているの? 今朝一緒に登校してたでしょ」
「小学校からの幼馴染でね、家も近かったから。それでだよ」
一度同じクラスになった事のある古城君にそう声を掛けられて、少し後ろめたい焦りもあったけど、嘘は言わずに誤解を与えない返答が出来た。
それにしても、碌に話した事も無いのによく見ていたものだ。
「それでも、友人は選んだ方が良いよ。君は柏木ホールディングの娘で、代々続く柏木商事の直系なのだから」
「家は、義弟が継ぐでしょう。私は家の事はよく分らないし、そう言ったお付き合いの場に出る事も無いでしょう。父に好きにさせてもらっているので、家の格だとかで付き合いを変える事は無いですよ。ですから気に障る様でしたら、私の事も捨ておいてください」
彼のお父さんは県議会議員だったはずで、何度か挨拶に見えられたことが有った。選挙の支援依頼だと、食事の時に聞いた覚えもあったが、県議会議員はそんなに偉いのだろうか。ましてや、その息子にどれだけの権限があると言うのだろう。
私の返答が不服だった様で、古城君は怖い顔で何かを言いかけたが、真美子さんがやって来て口を挟んだので矛先が変わった。
「そんな器量の狭い息子だなんて、民政党議員であるお父様が知ったら、涙が止まらないでしょうね」
「五月蠅いな。国民を食い物にする自公党の娘が、でしゃばってくるなよ。用はねえから向こうに行けよ、向坂真美子」
「私は紗理奈に用があるの。ねぇ紗理奈、三条君って書道部に入ってもらえないかしら。あなたの誘いなら断らないかもだし、聞いてみてよ」
真美子は書道部で昨年部長をしていた。当然、高校に上がっても続けるのだろうし、早速部員の勧誘に動いたのだろう。
「彼に校内を案内する約束したから、真美子も一緒に回ってくれるかな」
「いいよ。そのまま部室に案内しちゃおう」
蚊帳の外にしたこともあって、古城君はむくれたまま離れて行った。代わりに三条君が近づいてきたので、三人で回る事を提案して快く了承してもらえた。
真美子は押しが強かった。そして、部長さんは更に押しが強かった。
最後に顔を出した書道部の部室では、部長の三枝先輩に捕まってしまって、二人して入部届を書かされたのだ。なぜ私もとも思ったけど、彼が「柏木さんも入るなら」なんて言い出すものだから折れてしまった。もっとも、部活は入っていた方が内申も良いだろうし、出費の少ない所なら尚良い。ベターな選択だったと思う。
◆◇◆◇◆◇◆◇
クラスも部活も一緒なので、三条君とは初日以降も揃って登下校している。手を繋いでとかは無いけど、電車がかなり混むのでその間の密着は鼓動を早める。周りの圧力から守ってくれるように腕の中に匿われているので、致し方ないだろう。真美子だって『不可抗力だけど役得だよね』って言ってくれている。そう、私の気持ちは彼女にバレている。
「なんで二人のお弁当は中身が一緒なの」
午後の授業が始まると、三条君が毎日お弁当を作ってくれる。前日の余りや冷食も入るけど、彩の良いとても美味しいお弁当を用意してくれるのだ。本当だったら私が作れば良いはずだけど、人に渡せるレベルではないので甘えさせてもらっている。
当然ながら違う物は用意できないので、似通ったお弁当箱で中身は一緒の物を、教室で揃って食べる事になる。真美子と冨澤君も一緒に。
「柏木さんとは同じアパートでね、大家さんが用意してくれるんだよ」
「へぇ、至れり尽くせりだね。私もそのアパートに入りたいよ」
「えっと、真美子は独り暮らししたいの?」
「許してもらえないけどね。そうだ。明日、泊めてよ。学校帰りに買い物して、一緒に晩ご飯作ってさ。ちゃんと綺麗にしているかチェックしてあげるね」
ご飯を作るって、お鍋も無いとは今は言えない。どうしようかと三条君を見れば、笑いを噛み殺しているのがよく分る。こうなったら恥を忍んで断ろう。
「あのね。まだ炊事とか慣れていなくって、人様に出せるレベルじゃないの。だから、泊まりに来るのは良いけど外食にしないかな」
「いつもの様に大家さんとこで食べれば? 快く迎えてくれるよ?」
「へぇ。やっぱり外食ばっかりで、大家さんにも心配かけてるんだ。三条君も大家さんの所で食べてるの?」
「そうだよ。向坂さんが気にしないのなら、いっしょにどう?」
断ってくれればいいのに、私を無視してどんどん話が進んでしまって、明日の午前授業が終わったら三人で帰る事になった。真美子の着替えは、迎えの車が持ってきてくれるそうだ。
こうして三人で電車に揺られて最寄りの庚申町駅に着き、駅前のスーパーに寄って食材を購入する。
もっとも、三条君が籠に放り込むのを見ているだけなので、その後ろを真美子と並んでついて歩くだけ。真美子は胡乱気な視線をたまに向けるけど、そこは帰ったら説明するつもりなので気付かない振りをする。
「なんなの、この部屋。生活感がまるで無いじゃない。鍋や包丁が無いってどう言う事? 全て外食なの? 偽装用なの?」
「親が借りてくれた部屋だよ。ちゃんとここで寝泊まりしている。ただね。その。食事に関しては大家さんに、全面的に甘えさせてもらってます」
「両親公認ってこと? いえ、彼の側はお祖母さんだっけ?」
「うちの両親は知りません。彼の方は聞いてません。あのね。私、家を出されたの。家賃や光熱費、学費は出してもらってるけど、それ以外は月二万円で過ごさないといけないのよ。それを知った彼が甘えさせてくれているの。本当はこんな事じゃいけないんだけど」
「やっぱり、付き合っているのね」
「私は彼が好き。クラスで浮いてしまった私を、変わらずに接してくれた優しい人だから、再会して改めてこの気持ちが溢れてしまった。そして、彼も私に好意を寄せてくれている、と彼の従妹さんから聞いてはいるの。でも、彼から告白された訳じゃないし、一方的に甘えさせてもらっている私が告白できる立場にいないしで、恋人未満の関係でいる」
彼に求められれば喜んで従おうと思うし、それが例え体だけを求められるものだとしても後悔はしないつもりでいる。でも、そんな事は無いだろうし、だからこそ今の関係が心地いいのも確かだ。傍から見ればふしだらな関係と見えるだろうし、真美子にそう思われても仕方がない。
恐る恐る真美子を窺い見ると、ため息交じりに頭を振って落ち着こうとしている様に見える。
「分った。とりあえずお昼を食べに行こう。話はその後でしっかりとさせてもらうからね」
食べるのは三条君の所でで、別れ際に『有り合せで用意するから、着替えたら下りてきて』と言われていた。だからこその突入台所チェックだったのだが、覚悟が決まった分話し易かったかもしれない。
出された食事はチャーハンと冷凍シュウマイだった。真美子は『冷凍食品って結構美味しいわね』なんて言っていたけど、炒飯に入っているチャーシューは彼の自家製だと教えてあげる。圧力鍋を使った低温調理なので手間はかからないらしいけど、今まで食べた中では一番だと思っている。
「で、三条君は紗理奈の胃袋を掴んでどうしようと言うの」
「当然、下心があっての事だけど。もっとも、今どうこうしようとは思っていない。余所の家の事は口出せないけど、彼女の境遇をどうにかしたいと思った。ちゃんと独りで立てて、しがらみに左右されなくなった時に気持ちを伝えようと思う」
「それって好きって事だよね」
「そう取ってもらって構わないけど、この状況での告白は断れないだろうし、今手を差し伸べなければ後悔しそうだったんだよ。だから、関係を進めようとかは考えていない」
真美子には全て話そうと、家出の立場や扱い、家を出された経緯、ここに来た日の事、智子さんとの買い物などを全て話した。話し終わると私を抱きしめて、『もっと早くに頼って欲しかった』と涙声で言われた。そうしたかったけれど、それは出来ない事だと分かってもいたのだろう。真美子はそれ以上この話題を口にしなかった。
それから真美子は、定期的に女子会と称しては泊まりに来るようになった。もっとも、お菓子やジュースの補充がメインであるように、大量の荷物を置いてゆく。少し料理も覚えてきたので、無難な料理を自室で作って二人で食べる様にもなってきた。彼女のお母さんの差し入れもあって、感謝しきれない。
◆◇◆◇◆◇◆◇
良い変化に浮かれていたツケだろうか、夏休みの終わりに仕送りが途絶えた。
事の発端は夏休み中のアルバイトだったのだろう。揃えたい物も出て来たので、思い切って三条君とアルバイトをすることにした。場所は智子さんが勤める喫茶店で、八時の開店準備からランチタイムの終わる十四時まで。ホールの仕事や皿洗いを請け負った。
アルバイトを始めるのには学校に書類を出す必要があって、その書類を書いてもらった時に気付いていればバイト自体を止めていたかもしれない。
「懐きもせずに息が詰まるだろうと思って部屋を借りてあげれば、自立でもした気分なのでしょうかね。それとも、悪い友達にでも感化されたのかしら。これで良いでしょう。さぁ、好きになさい」
それで結局は仕送りを止められてしまったわけだけど、学費は年初に一括で支払われているようだし、家賃の滞納は無いとの事なのでひとまずは安心した。それでも定期代まで無くなってしまったので、智子さんに頼んでアルバイトを続けさせてもらう事にはなった。もちろん、三条君も一緒のシフトで。
智子さんは事情の全てを知っていて、もしもの時は弁護士さんに間に入ってもらおうと言われている。もちろん、知り合いの弁護士さんに頼んであげるから安心してねとの事だ。三条君はこの件に口は出してこないけど、変わらずにご飯に呼んでくれて、お弁当を用意してくれる。おそらくは、彼が頼んでくれているから智子さんが動いてくれているのだろう。
アパートの方は秋口を過ぎて店子が一人増えた。
相手は大学生の女性で、智子さんの知人だと聞いていたけど、智子さんがその部屋を訪ねた所を見たことが無い。三条君の話では教育学部の学生さんで、春から私たちの通う高等部に勤めるとの事だった。さして近くも無いのだが、駐車場は空きがあるし部屋も広くて綺麗とくれば、女性だったら飛びつく物件だろう。
もっとも、お家賃はいくらになったのかは聞いてはいない。それを聞いてしまっては、両親に掛け合わないといけない気がするからで、バイト申請書の件から連絡の途絶えた今では難しいと思うのだ。
差額であろう金額を入れられる様、喫茶店でのアルバイトは続いていて、なぜか三枝元部長がよく顔を出してくれる。
「ねぇ、三条君。常連さんなのだから、たまにはサービスしてよ。今度部室で、彼女に内緒のサービスしてあげるからさ」
「ケーキセットって、儲けが少ないそうですよ。たまには軽食を頼んで頂けるとか、お友達を連れて来て頂けるとかして、マスターに頼んでみてくださいよ」
「確かにダンディーなマスターだけど、私は年下が良いのよね。お姉さん、少しは融通できる資産を持っているのよ。潤沢なお小遣いを渡せるのだけど、私に乗り換えない?」
少しハラハラしながら様子を窺っていると、フッと鼻で笑った三条君が冷やかに言い放った。「独り身で生活も有りますから、彼女だなんだと浮かれている暇はないんですよ。もっとも、選択肢は一つなので選びようがないですけどね。その一つはご想像通りだと思いますよ」と。
火照ってしまった顔を見られない様、キッチンに入って皿洗いを始めたけどすぐ終わってしまって、サボる訳にもいかずにホールに戻る。まだ三枝先輩は店内に居て、戻った私をニタニタと見てくる。さっきのも含めて、からかわれていたのは三条君では無く私だったのかもしれない。そう思ったので、慎ましやかな胸を張って自慢してやった。
古城君みたいに悪意を持って接してくる人も居ないでも無いけれど、温かく包んでくれる様な彼の存在と、見守って手を差し伸べてくれる人たちのおかげで、私は随分と変わる事が出来た。
親の言いなりになって、目立たぬように息を潜めていた私はもう居ない。
彼の横に立ちたいと言う欲求が、私に立ち上がる事を要求し、支えてもらいながらも前を向ける様になった。これからは顔を上げて前に進んで行こうと改めて思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
三枝先輩のからかいは、柏木さんに気持ちをはっきり伝えろとの意図が有った。その話はメールや電話で散々されてきたものだった。
先輩の家は運送業を営んでいて、流通業界の情報が良く集まる。その噂の中に柏木ホールディングに関わる事が増えているそうで、どうやら子会社の不正が明るみになったとかで、親会社の関与や責任問題で柏木家も大変らしい。
だから融資目的で望まぬ結婚を迫られるくらいならば、お前が娶ればいいと勧められていた。
柏木家の台所事情は調べてあり、多少の損失と収益悪化で済んでいた。だからと言って娘の生活を放棄するのは如何なのだと思うが、そもそも跡取り息子だけが大事だと公言していたのだから、生活費のみならず家賃さえも止めた事には驚かなかった。
柏木さんには黙っているが、八月に入って直ぐに母親が不動産屋に来たそうだ。本来ありえない契約者の変更は、お付の脅迫じみた対応でゴリ押しされてしまった。未成年を保証人無で賃貸契約者とするなど有り得ないのだが、親の反対を押し切って大家の息子(実際は大家なのだが、公言していないのでそう思っているようだ)と恋仲になり、同棲状態なのだから勘当も当然だろうと言い放ったそうだ。
事情を察した不動産屋の機転で、それまでの会話に加えて家に連れ帰る事はしないとの言質も録音された。契約自体は解除となって、実質的には僕が私室に囲っているような状況だった。よって、光熱費の支払いも大家である僕の方で行うように手続きは済ませてある。
実は学校にも退学届けが出されていて、柏木父が二学期以降の授業料の返金を求めたそうだ。学校は年度の途中で退学した際も返金は行わないと、入学説明で行っているので従わず、他校への転入も無いと聞き及んで三月までは生徒として扱うとしてくれた。
三船の伯母さんは桜花大学の理事をしている。その大学の付属校が僕らの通っている学校なので、多少の融通が利く。同じクラスにしてもらったのがそうだが、学費の件も内々で処理してもらって、二年時以降は僕の方で支払う事で在学を認めてもらった。
外堀は埋めてしまったが、彼女に関係を無理強いするつもりは全くない。彼女がちゃんと僕を好きになってくれて、僕との結婚を考えてくれるまではこの関係を続けていくつもりだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
高校を卒業したら就職するつもりでいたけれど、三条君と智子さんに進学を勧められた。お金の件に関しては奨学金制度もあるし、せっかく優秀な成績を収めているのだから、進学した方が就職に有利だからと説得されている。
「もしもだよ。高校卒業のタイミングで家賃を止められたら、あのお部屋、いくらで貸してもらえるかな」
「未だに使った事ないけど、非常扉がある以上は下手に貸せないからね。空き部屋にしとくくらいならば、タダでも柏木さんに住んでもらっていた方が良いよね。でも、そうだな。ここで一緒に暮らすって選択肢はないの?」
「同棲ってこと? こうして食事は一緒にしているから半同棲状態とも言えるけど、三条君に好きな人ができたら困るでしょ」
「そろそろ頃合いかな。僕の誕生日まで、二週間を切った。誕生日を過ぎれば結婚できる歳になるよね。その時には、僕と結婚してくれませんか?」
「ふふっ。随分と急だね。申し出は嬉しいけど、一時の憐みとかで将来を決めてしまうのは如何かな」
「ずっと好きだよ。それこそ小学校の頃からね。これまで言い出せなかったのは、紗理奈の境遇が本心を言い出せない様にしていたせい。それでも君が、僕に少なからず好意を抱いてくれ続けていると自惚れられるから、こうしてプロポーズに踏み切ってみた。それで返事は?」
「ここで名前呼びは卑怯だよ。でも、私も彼方がずっと好きです。後悔させてしまいそうで怖いけど、自分の気持ちに正直になって『はい』とお返事させてもらいます」
照れくさいけど、この二年ちょっとの間支えてくれた私の王子様だもの。たとえ裕福な生活なんて出来なくたって、貴方と寄り添って慎ましやかな生活ができるならば幸せだと思える。
卒業を待ってだろうから時間はかかるけど、一歩踏み出したのだから胸を張っていこう。
そうして迎えた佑斗君の誕生日会は、バイト先の喫茶店を貸し切って行うことになった。なんでも、親類を集めてとなるから広い方が良いらしい。
店に着くと智子さんが迎えてくれた。すでに全員そろっているそうで、入ったその場でとんでもない紹介をされる羽目になった。
「今日は集まって下さり、ありがとうございます。彼女は柏木紗理奈さん。式は先になりますが彼女と結婚しますので、共々よろしくお願いします」
「ふぇ! えっと、柏木紗理奈と申します。あの、よろしくお願いします」
拍手で迎えてくれたのは三十人くらいの大人ばかりで、同年代は見当たらない。強いて言えば、智子さんがこちらよりの世代となる。そして真っ先に連れて行かれたのはマスターの所で、マスターが智子さんのお父さんだと初めて知った。
マスターは、『これからも大変だろうけど、甥を支えてやってください』と言葉をくれた。佑斗君には『分っているね』なんて少し怖い顔で封筒を差し出している。
次に連れて行かれたのは一番奥まった席で、そこには年配のご夫婦が座っていて、優しい笑顔を向けてくれていた。
「お祖父さん、お祖母さん。今回は無理を通させてくれてありがとう。彼女と幸せになりたいので、証人の欄にサインをお願いします」
たぶん私は緊張がピークに達していたのだと思う。彼が封筒から取り出した紙に、言われるがままサインをして捺印し、目の前の二人の押印をポカンと見るだけだった。
それが済むと、眼鏡をかけた男性が進み出てきて声を掛けてきた。後で知ったのだけど、佑斗君の又従兄で弁護士さんをやっているそうだ。
「紗理奈さん。ご両親から必要な書類は預かって来ています。学校の手続きなどは私の方で行いますが、事前に了承を頂いていますので問題ないでしょう。この場にそぐわないのですが、あえて言伝を述べさせていただきます。『お前の母親と同じで、出ていってくれて清々した。貧乏人と這いつくばって暮らしていけ』との事です」
佑斗君が支えてくれていなければ、その場で座り込んでしまっていたと思う。言伝を聞いてサインした用紙が婚姻届である事を認識して、もう縁が切れたのだと不意に気付いて涙がこぼれた。
血の繋がりがこんなにも希薄なのだと思い知って、もしかすると既に学費や家賃が払われていなかったのではと思い至った。佑斗君に随分と迷惑をかけていたのだと、申し訳なさが先に立つ。
「家賃や学費は……」
「大丈夫。ちゃんと取り立てるから、気にしないで。その為にも縁を切ってもらったんだし。社員に迷惑を掛けないようにしながら、彼らには貧乏のどん底で這いつくばって生きて行ってもらおう」
そこに集まった者の結束は固いと聞いた。お祖父さんが会長を務めるグループに、それぞれの役割を担って繁栄に尽力しているそうで、佑斗君も将来それを担うのだと言う。亡きご両親の代わりに後ろ盾になってくれた、多くの親族に恩を返すために。その恩恵を受けた私も名ばかりの血縁に別れを告げ、彼と一緒に恩を返そうと誓った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
恥ずかしかったのもあって、婚姻届はお言葉に甘えさせてもらった。
あの日帰って直ぐに真美子に連絡を入れたら、ただ一言『幸せにしてもらうんだよ』って言ってもらった。卒業までは今のまま部屋を借り続ける事になるけど、台所の非常口を使って行き来することになった。
マスターから念を押された『理性的であれ』を実践するためだとか。それに、変わらず真美子が泊まりにこられる部屋があるのは助かる。最近は友達も増え、美代ちゃんや五十鈴さん等とタコパもやったりしていて、すっかり健全な(だと思う)溜まり場にもなっている。
羽目を外すと隣の部屋から突撃されるので、おとなしく楽しんでいる。厳しいけれど、声を掛ければ混ざるので随分と親しみのある教諭ではある。そんなお隣さんの影響もあって、親受けは良いらしい。
入籍して一月も立たないうちに、学校で噂になった。
発端は古城君で、突然教室に現れて佑斗君を敵に回したのだ。
「柏木。お前の家、今大変らしいな。子会社が二つ潰れただけで、親会社の創業家が火消できないなんて、随分と無様だよ。どうだ、おれの女になるなら火消の手伝いくらいはしてやるぞ」
「私は好きな人がいますし、実家とも縁を切っています。あなたと関わるつもりは毛頭ありません。そもそも失礼でしょ、いきなり」
「なんだ、あの貧乏人に股でも開いたのか。いいよ、純潔なんて望んじゃいないから。俺とも遊っ!」
「ばねえよ! 人の嫁を捕まえて、汚ねぇ言葉吐いてるんじゃねぇよ」
最後まで言わせず古城君を殴り倒した佑斗君が、秘密にしている関係を暴露してしまったわけです。
それで済めば噂で済んだのですが、どうやって調達したのか戸籍謄本をバラまかれたのです。一方的な蔑みのビラとして。
これには学校側も迅速に動きました。
全校放送にて入籍が事実である事が話され、両親族了承のもとでの事でやましいものでは無いと言って頂きました。一方の古城君は停学処分となり、自主退学を選びました。SNSでは彼のあの発言が公開されていて、彼のお父さんが議員活動報告に用いているアカウントに飛び火し、炎上しているそうです。
クラスの反応はと言えば、一年の頃から公認の仲でも有ったので好意的に受け止められています。
進路の希望が定まった十月の事です。
柏木ホールディングは子会社のみならず、母体である柏木商事での法令違反が明るみに出て関連会社全般で株価が急落。そこに海外の投資ファンドが柏木商事の株式を買いあさる事態が起きて、柏木の親族は流出した柏木商事の株式を買い集めた。
それを手助けしたのが財閥系と言われる五所河原グループで、株式公開買い付けによる子会社の買取りによる資金提供が進められた。
最終的に柏木家が手にしたのは、大きな負債を抱え倒産した柏木ホールディングと、取引先のほとんどを失った柏木商事のみで、私の生家は銀行の物となった。
父たちの行方は知らない。知りたいとも思わないけど、たぶん佑斗君は把握していると思う。なぜなら、漁夫の利を得た五所河原グループの、十数年振りに表舞台に出た会長が彼のお祖父さんだったから。そして、海外ファンドの担当は三枝先輩のお父さんで、あの日の誕生会にもいらしていたのだから。
「佑斗君って、本当はお金持ちなの?」
「資産はかなり持っているよ。でも、増やすことはすれども食いつぶす様な事はしないつもり。だから自分で稼いだ分での贅沢しかしないし、紗理奈に不自由を強いるかもしれないけど許して」
「お金を掛けた贅沢が幸せだとは思わないもの。だから二人でまっとうに働いて幸せになれれば、お金なんて多く持ってなくても良いんだよ」
「あれは、私のためにしてくれた事なの?」
「いや、孫を侮辱された祖母の恨みだね。そして、一族の嫁を悲しませたことの意趣返しだよ。僕が関与したのは君とこうして一緒に居られるようにしたこと。協力を仰いだのは智子姉と三枝の小姉だけ」
今、家族だった人たちに『ざまぁ』と言うのは簡単だけど、ちゃんと佑斗君と家族を増やして幸せだと言えた時、あの人たちに会えたなら大声で言ってやろうと思う。
「私は今幸せで、あのアパートに住まわせてくれたからなんだよ。だから『ざまぁ』ではなく『ありがとう』と言わせてください」って。
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