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無名の少女

 進学、就職、結婚……。人生の転換点となる出来事は幾つも存在し、その度に我々は選択を余儀なくされる。誰も居ない家で一人、一冊の手帳を抱き静かに涙を流す少女もそうだ。そして今、その無名の少女が下す一つの決断により、世界は大きく動き出そうとしていた。

 時は少し前に遡る——。




「ただいま~、ってお父さんまたアイドル見てる‼ もうちょっと違う趣味ないの~? そういう系はオタクってレッテル貼られて標的にされやすいんだから、お父さんがアイドル好きってクラスの男子にバレたら絶対からかわれるよぉ~。絶っっ対に外ではそんな雰囲気出さないでよね‼ この近所は情報の拡散するスピードが尋常じゃないんだから、一回でもうっかり漏らしたら終わる‼」


 少女はリビングへ通ずるドアを開け父の姿を見るなり、ゲッとした表情を浮かべ苦言を呈する。

 少女の名前は小林果実(こばやしかじつ)。とある田舎で父と共に暮らす、しがない女子高生だ。

 果実はこれ見よがしに大きめの溜息を一つ吐いてからドアを閉め、持っていた学生鞄をダイニングチェアへ少々乱雑に置く。その姿は『私、気に入りません‼』という主張を言外に雄弁と語っていた。

 果実のプリプリとした態度に父・竹康(たけやす)は困った様に頬を掻く。優しそうな印象を与える外見を裏切らず穏やかな性格をしている竹康は、よほどの事ではない限り果実を叱ることはない。それには、果実が年端もいかないうちに母親を亡くしている事から出来る限り甘やかしてあげたい、という親心も働いていた。


「おかえり、果実。ごめんね、外では出さないように気を付けるから。今日の晩御飯は果実の好きなコロッケを作ったんだ。今温め直して——」

「バイト先で賄い貰えて、それ食べてきたから大丈夫」

「そっか……。それなら仕方ないね。もうこんな遅い時間だ。早くお風呂に入って寝なさい」

「お父さんこそ。明日は珍しく出社の日だったよね? 私のこと待ってないで大丈夫だから早く寝なよ」


 そう言い残し、果実は竹康と目を合わせることもなくリビングを後にした。その後ろ姿を見送った竹康は配膳をしようと浮かせていた腰を下ろす。壁掛け時計にチラリと視線を送ると、十時四十五分を回っていた。


(明日の起床時間は四時だろ? 果実が風呂から上がるのが大体三十分後だとして、それから寝ても五時間近くは寝れるか。)


 暫し天井を向いてボーっとしていると、視聴していた動画を静止したまま放置していたことにはたと気付く。ノート型パソコンをHDMIケーブルで繋ぎテレビ画面に投影していた為、今テレビにはデカデカとアイドル映像が表示されているのだ。静止されている映像を漠然と視界に入れながら、今後について思案する。


(やっぱりこの趣味は辞めるべきなのか……? 愛娘との関係が悪化するくらいなら捨てるべき、か……。それに万が一、果実の言う通りに俺が原因で娘が嫌な目に遭うなんて事があったら……)


 静まり返った静寂の中、時計の短針の動く音がやけに大きく響き渡る。

 竹康は一度静かに目を閉じた。深呼吸の後に目を開き、視聴していた動画を閉じていく。


(さて……、何か没頭できるモノを探さないとな。資格の勉強でも始めてみるか?)


 普段はピシりと伸びている竹康の背中は哀しくも丸まっていた。




 ピピピピピッ、と無機質に鳴り響く目覚まし時計の音で果実は目を覚ます。もぞもぞと身じろぎをし、ノールックで目覚まし時計をバシンと叩きアラームを止めた。かと思えば、腕を伸ばしたままうつ伏せに倒れ動く気配がない。朝にめっぽう弱い果実は一度のアラームで起きれた例がなく、スヌーズ機能に助けられている者の筆頭だ。

 その後も毎朝恒例の格闘を繰り返し、数度目のスヌーズでついに起きる決心をつける。名残惜しさを振り払うように勢いよく身を起こし、ベッドから降りる。寝ぼけ眼で窓際に足を向けカーテンを一気に開けると、キラキラと輝いた光が果実に降り注いだ。


「っ、眩しい……」


 今日は一段と良い天気だな、と寝起きには強すぎる光に目を細める。

 太陽光を浴びたことで頭は覚醒し出し、よしっ、と小さく呟き気合を入れた。寝坊助な果実はいつも時間ギリギリ。ここからは一分一秒を争う勝負なのだ。

 覚醒さえしてしまえば後は早い。軽くベッドを整え、直ぐに身支度に取り掛かる。毎朝デッドラインを攻めている果実は早着替えもお手の物。化粧をすることもなければ、髪の毛も一つに括るだけ。教科書類を学校の個人ロッカーに置く、所謂『置き勉』をしている果実は、鞄の中身を入れ替える作業も少ない。今日の時間割では新しく鞄に詰める物もないため、手ぶらで自室を出て一階に降りる。

 ダイニングテーブルには朝食と共に書置きが残されており、そこには


『果実へ。おはよう。お父さんは先に出勤します。お見送りが出来なくて残念ですが、気を付けていってらっしゃい。』


 と丁寧な文字で書かれていた。


(お父さん変な所アナログなんだよな~。スマホがあるんだから、チャット入れればいいものを)


 目を通した書置きを机の端へと置き、ダイニングテーブルに着く。現在時刻を確認しやすくするため手早くテレビを点けると、最近巷で話題のお天気お姉さんが出演する天気予報コーナーが流れた。並べられていた朝食を急いで頬張りながら、天気予報に耳を傾ける。


『~~。さて、本日の天気は~……、晴れ‼ 予想最高気温は三十度前後、真夏日となるでしょう。水分をこまめに取り、熱中症に気を付けてお過ごしください。続いて週間天気予報です——』

「うわ~、三十度とか暑すぎでしょ。まだ六月なんですけど‼ 本気出しすぎだって‼」


 流れて来た情報に対して反射的に小言をこぼす。

 最後の一口を口に詰め込み、食器を水につけシンクに置く。置いておけば父が夕食分と纏めて一緒に洗ってくれるだろうとの打算だ。

 洗顔、歯磨きを超特急で済ませ、テレビの電源を消す。直前に流れていた映像ではニュース原稿を読み上げるキャスターの左上で、七時五分と小さく表記されていた。大方普段通りの、急げば朝のショートホームルームに間に合う時間。

 昨晩から置きっぱなしにしていた学生鞄を肩にかけ、家を出る。時刻表通りでは三分後に出発するバスに乗車するため、今日も果実は駆けて行くのであった。




「うっしゃ、セーフ‼ 間に合った~‼」

「こら小林、廊下を走るな。それに厳密に言えば間に合ってないから」

「先生そこをどうかっ‼ ほら、余韻‼ まだチャイムの余韻が微かに聞こえますっ‼ だからセーフって事でお願いします~」


 頭上で両手を合わせ大きく腰を曲げる。ダメ押しで、どうかご慈悲を~、と呟き全力で慈悲を乞う。強面の担任は呆れたような表情を浮かべ


「ったく。今回だけだからな~。次からは気を付けるんだぞ~」

「っしゃ‼ ありがとうございまーすっ‼」


 担任の情けに果実はガッツポーズを構え、元気よく感謝を伝える。果実の担任は学内で厳しいと有名な教師であるのだが、些細な点に関しては意外と甘い一面を持つ。

 したり顔で自席に着くと、


「今日もギリギリ……、てか最早アウトじゃん。そろそろヤバいんじゃない? その手は何度も通じないと思うぞ~?」


 と背後から声が掛かる。半身で振り返ると少女がニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。この少女は果実の友人・松基璃日子(まつもとりかこ)。約一年前の高校入学時に出会ったのだが即意気投合し、恐ろしい程のスピードで友情を深めている。運良く二年次も同じクラスとなり、これまた運良く初回の席替えで前後の席となっていた。中々にイイ性格をした松基は遅刻に片足を突っ込んでいる果実を嗜めはせず、その様を楽しんでいる。


「いや、今日は途中で転んだっていうタイムロスがあるから。璃日子にしたら残念だろうけど、まだまだ遅刻にはならんよ。」

「え、果実が転ぶなんて珍しっ‼ 自慢の運動神経を駆使して『転びかけても転ばない』で有名のあんたが? 今日厄日なんじゃない? 今朝の占い何位よ?」

「何よその安直な考えは。てか、ギリギリ攻めてるのに占いなんか見る余裕あるわけないでしょ‼」

「コラ、そこ煩いぞ‼ なんだまた小林と松基か‼ 今度また煩くしたら席替えだからな」


 小声でヒソヒソと話していたが、目敏い担任に見つかり注意を受ける。顔を見合わせた二人が同時に謝り、周りの生徒からはクスクスと笑いが漏れる。そんな何てことない日常だった。




 クラスの生徒が教科書を音読する声が耳から耳へと通り抜ける。開けていた窓からは少し蒸し暑さを感じる初夏の風が入り、不定期に果実の頬を撫でていた。窓側の席を獲得している果実は頬杖をつきながら窓の外に目を遣る。天気予報通りに清々しい程晴れ渡った空の下で、どこかのクラスの生徒達が陸上競技に勤しんでいた。


(こんな暑い日に外で体育とかシンドそ~)


 授業を聞いているフリをしながら、内心で野外授業を受ける生徒に同情する。

 そんな時にガラガラッ、と唐突に荒っぽく扉が開かれた。何事かと皆が音の発生源に目を向ける。無論、果実も例に漏れることなく扉の方向に目を向けていた。そこには取り乱した様子を隠しきれていない担任が肩で息をしていて、


「小林ッ‼ 今すぐ帰る用意をして来なさいッ‼」


 果実を見つめ、そう叫んだ。





「え……。え……? 嘘……でしょ……? 何かの冗談だよね……? そんな訳ないじゃん。だってお父さん、昨日も全然……、何にも様子が変わったことなんて無かったよ? 全然普段通りだったよ? なのにこんな……。ありえないよ」

「……果実ちゃん……」


 顔面蒼白で震える果実に叔母・杜中千鶴(もりなかちづる)が痛ましげに声を掛ける。

 果実は一度も来たことのない都会のとある病院内、霊安室に居た。果実の眼前には丁寧に処置が施され横たえられた竹康の遺体。果実は今しがた、千鶴から竹康が突然死したことを告げられた。事故によるものではなく、通勤途中に突如倒れ、救急車で搬送され懸命な蘇生処置が施されるも力及ばず帰らぬ人となったそう。また状況から推測するに、過労やストレスが原因となって突発的に発症した疾患が致命傷となったと考えられるとの事だった。


「本当は寝てるだけなんでしょ? 結局昨日は私を待っててくれて寝るのが遅くなっちゃったもんね。こんな所で寝てたら風邪引いちゃうよ。この部屋、なんだか寒いんだから。ね、お父さん、早く一緒に……家に帰ろ?」


 震える足を何とか前に進め、果実は恐る恐る竹康の腕に触れる。触れた瞬間に指先から伝わってくるヒンヤリとした感覚にびくりと反応し、思わず手を引っ込めた。その冷たさが本能に訴えかける。竹康はもうこの世には居ないのだと。

 嘘だと思いたい感情とは裏腹に、理性は竹康の死を事実であると認め始める。


「そんな……、こんなのあんまりだよ……。私、昨日めっちゃ態度悪かったじゃん。嫌な奴だったじゃん‼ 謝るからっ‼ 幾らでも謝るからっ‼ 素直じゃなくてごめんなさい‼ 我が儘言ってごめんなさいっ‼ お父さんの趣味が何だって良いよ‼ それでクラスの男子に弄られようと我慢できるから‼ だから……、お父さんまで私の事を置いて逝かないでっ……‼ ……私を……一人にしないでよ……」


 果実はその場に崩れ落ち泣き叫ぶ。余りにも痛々しい果実の姿にとうとう千鶴は掛ける言葉も見つけられず、ただ無言で果実の肩を抱きしめた。


「……胸が痛む話よね。あの子、まだ十七歳の高校二年生らしいわよ。その年でもうご両親共に亡くなってしまって」

「ええ、本当に。……もう少し時間を置いてから再訪しましょう? 今後の話はそれからでも遅くはないわ。後々あの子が早く立ち直れるように、今は目一杯悲しみを表現できる場を与えてあげなきゃ」

「それもそうね……」


 今後の事務的事項の説明に来たスタッフは静かに中の様子を確認し、踵を返す。

 果実の悲しみの咆哮は暫く止むことがなかった。




「本当に一人で大丈夫? 叔母さんで良ければ一緒に居るわよ?」

「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。お父さんが亡くなった日に沢山泣いて、もう涙なんて枯れました‼ 母を亡くした時に比べれば私も大人になったので、気持ちの整理もつけられます。それに、片付けは一人の方がパパっと出来ますし‼ なので本当に大丈夫です‼」

「そう……?それじゃあ私は行くけど……。何かあったら直ぐ連絡してね、駆け付けるから」

「はい‼ ありがとうございます‼」


 後ろ髪を引かれる思いでその場を後にする千鶴の背中が消えるのを見届け、果実は数日ぶりの我が家へと帰って来ていた。

 竹康が亡くなった日からというもの、葬儀の手配や関係各所への連絡、諸手続きなど、やらなければいけない事に忙殺され、正直あれ以来悲しむ間もなかった。無論高校生の子ども一人で全てを行うことは難しく、叔母夫婦の手を借りたのだが、それでも忙しないのだ。

 果実は叔母一家に引き取られ、共に暮らす手筈となっている。千鶴は果実の心情を慮った様々な提案をしたのだが、その殆どを果実は受け入れなかった。叔母夫婦には気にする必要はないと言われるものの、やはり極力迷惑をかけたくなかったのだ。そして行く行くは果実の生家を取り壊し、土地は売りに出す事が決定した。維持費も馬鹿にならず、今後住む人間も居なくなることを考えた末に果実が決断を下したのだ。そんな事情もあり、叔母の家に持ち運ぶ物品のパッキングと断捨離の為に帰ってきた。

 鍵を開け、中に入る。


「ただいま……」


 何となく呟くも、当然返事は返って来ない。静寂が無性に寂しく感じた。

 果実は足早に廊下を抜け、一直線に冷蔵庫に向かう。中から取り出したもの。それは、竹康が亡くなる前日に食べなかったコロッケだった。冷蔵庫に入れていたとはいえ、あれから数日は経過している。痛んでいる可能性は十分考えられたが、果実は食べなければならないと感じていた。

 電子レンジに入れ加温する。そのまま温められるよう耐熱容器によそわれていた、そんなごく小さな事でも竹康の気遣いが感じられ、涙腺が緩む。電子的な音が小気味よく鳴り、器を取り出しテーブルに置く。かけていたラップを取ればホカホカと湯気が立ち上がり、食欲をそそる香りが広がった。


「良かった、まだ全然食べられそう……」


 ダイニングチェアに腰かけ、ゆっくりと手を合わせる。いただきます。しっかりと言葉に出してから、竹康が最後に残した手料理に箸をつける。


「……お父さん。今回のちょっとしょっぱいよ……」


 一口一口大切に味わうように。その味を、温かさを余すことなく記憶に刻み込むように。果実は時間をかけて完食した。

 シンクに放置された食器も纏めて皿洗いをし、掃除に取り掛かる。

 元々思い切りの良い性格の果実はパッパと断捨離を進め、父の部屋に手を付け始めた。時に判断に迷う物もあったが、次の住まいは居候の様なものであり極力荷物は少なくするべきだ、と心を鬼にして捨てていく。


「……? 手帳?」


 暫く無心に捌き続けると、本棚の陰から一冊の手帳らしきものが出て来た。その表紙は廃れており、随分と使い込んでいることが伺われる。しかし、果実はどうも違和感を感じた。竹康は基本在宅ワークをしていたため、手帳を使用している場面を目にする機会も多かったのだが、この手帳には全くもって見覚えがないのである。中身を確認しようと手帳をペラペラと捲り、果実は目を見張る。


 中身は竹康の書いた日記であった。


—— 妻が他界した。心に大きな穴が開いたようだ。しかし、俺よりも果実の方が辛く苦しいだろう。まだあの子は幼いのだから。俺がしっかりしなくては。


—— 果実が話そうとして途中で止める素振りをよく見せるようになった。本当は寂しいのに、俺の事を気遣っているのだろう。人を思いやれるいい子だ。少しでも寂しさを感じることがないよう在宅の仕事を探してみようと思う。


—— これまで邁進してきたが、自分の心が疲弊しているのを感じる。妻を亡くした喪失感、仕事のストレス、未来への不安……。色々な事が重なり押しつぶされそうだ。果実に不安を与えない為にも、娘の前では迷いのない父親を演じなければ。


—— 退勤途中に人生で初めてアイドルを生で見た。まだ新人なのか名前も聞いたことがないアイドルであったが、その姿は非常に心打たれるものがあった。芸能界など我々が暮らす社会と同じ、もしかしたらそれ以上に厳しい世界であるだろうに、ステージでは辛い顔など一切見せず笑顔で手を振り歌って踊るのだ。それもまだまだ年若い少女が。自分の夢を叶えるために一生懸命努力する姿を見て勇気づけられた。俺も果実を守るために頑張らなければ、と改めて思い直すことができた。


—— 果実からアイドルを応援するのは周りにバレたら恥ずかしいから辞めてほしいと言われた。目指すものは違えど、同じ夢を叶えるために努力する者としてエネルギーを貰っているだけなのだが、それでもいけないのだろうか。娘の前ではアイドル関連の視聴を控えよう。


—— 隠れて動画を視聴しているが、それでも気に入らないらしい。だがアイドルの力は今の俺には無くてはならないものだ。それ程までに精神の支えとなっている。どうにか良い解決方法はないものか。


 パラパラと流し読みするだけでも竹康の語られることのなかった胸中の一端を知ることができ、果実の目に薄い膜が張る。何とか涙を堪え、ページを捲り続けると最後の文章に辿り着いた。


—— 今日も果実とぶつかってしまった。もうこれで何回目であろうか。俺の幸せは果実が健やかで幸せに暮らすことだ。万が一にでも果実の言う通り、俺のせいで娘が嫌がらせを受けるようなことがあれば……。それに果実と今以上に仲良く暮らすことができるのならば、趣味を捨てることなど安い物だろう。俺は今日でアイドルを応援することは辞めることにする。明日からはこの穴を埋める丁度良い趣味を探す所から始めることとしよう。


「ごめんなさい……‼ ごめんなさいっ‼ 私、何にも分かってなかった……‼ お父さんのこと、これっぽっちも分かってなかった‼ アイドルがお父さんに光を与えてたなんて思いもしなかった‼ 私……、お父さんになんて酷いことを……」


 日記を抱え、静かに涙を流す。果実は言い表しようのない罪悪感や後悔に打ちひしがれていた。かといって、もう竹康はこの世にいないのだ。どんなに後悔しようと、どんなに己の過去を悔いようと、顔を見合わせて語らうことは二度と叶わない。

 これからどうするべきなのか。

 己は何を果たしたいのか。

 頬をとめどなく流れる涙を拭うこともせず、果実は必死に考える。

 そして、一つの答えを導き出した。

 胸に手帳を抱えたまま乱雑に目元を拭う。その眼には強い光を宿していた。


「……決めた。私、アイドルになる。お父さんが元気を貰っていたように、誰かの心を照らし、背中を押してあげられるアイドルになる‼」


 広く感じる家でただ一人、はっきりと決意を口にする。

 特段容姿が優れているわけでも、異才を持つわけでもない普通の女子高生。そんな少女が抱いた夢物語。たった今できた彼女の夢を聞いたのならば、多くの者が否定するであろう。

 しかし。

 今この瞬間、少女の運命は確かに変わったのだ。

 そして、世界もまた動き出したのだ。

 そのことを知る者はまだ誰もいない。

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