第13話 揺らぐ最適解
実技棟地下。
都市インフラを模した可動式区画が、低い振動音とともに組み替わっていく。
床は部分ごとに沈み、壁は角度を変え、天井からは細かな粉塵を再現した粒子が落ちていた。
光のラインが走るたび、経絡インフラの位相が更新される。
「模擬災害救助訓練を行う」
教員の声が、空間に反響した。
「制限時間は十五分。救助対象は複数。全員を救う前提ではない」
一拍置く。
「救助数、安定度、判断速度。総合評価で見る」
学生たちの空気が引き締まる。
「今回は、代表を指名する」
教員の視線が動いた。
「神原。九条。前に出ろ」
ざわめきが走る。
神原は、迷いなく一歩前に出た。
九条玲真も、特に表情を変えずに並ぶ。
「まずは神原からだ」
区画が再編成される。
倒壊した建物、閉塞した通路、点滅する被災者シグナル。
神原は一瞬で全体を見渡した。
重症三。軽症五。
経絡乱流が強い区画が二つ。
神原は迷わない。
軽症者をまとめて立て直し、移動可能な状態に戻す。
進化型レゾナは使わない。コストが合わない。
次に、回復可能性の高い重症者一名。
残る二名には、手を出さない。
瓦礫の陰で、重症者役の学生が小さく息を吸った。
血糊で濡れた胸元が、上下にかすかに動く。片脚は不自然な角度で曲がり、設定通りなら、搬送困難であり、救助優先度は低い。
神原は、重症者を一度も見ない。
視線はタブレット端末の表示と、まだ助けられる人数のカウントに固定されている。
「重症者は見捨てる。生存率を最大化するには、これが最適だ」
神原は、淡々としている。
重症者は「情報」として処理された。
重症者の一人は、震える指先を必死に握りしめている。
もう一人の重症者は、天井を見上げたまま瞬きを繰り返していた。
どちらも助けを求める演技を続けていたが、神原の背中は振り返らなかった。
「次の区画へ進みます」
それだけ言って、彼は立ち上がった。
効率を損なう余計な動作は一切排除されている。
神原の動きは無駄がなく、滑らかだった。
レゾナは必要最低限。
判断は早い。
「終了」
教員の声が響く。
「次、九条」
教員の声に合わせ、区画が再び組み替わる。
九条は、区画に入った瞬間、足を止めた。
タブレットの表示を見る前に、まず視線を上げる。
被災者シグナルではなく、空間そのものを見ている。
瓦礫の隙間。
倒れた支柱。
そして、床に横たわる三名。
「……状況、把握しました」
九条は優先順位を口にしない。
代わりに、一人ひとりの顔を見る。
「大丈夫ですか? 聞こえますか?」
最も近くの負傷者に、膝をついて声をかける。
軽症者を確認すると、すぐに視線を奥へ移す。
血糊で胸元を汚した重症者がいた。
九条は一瞬、タブレットに目を落とした。
〈生存率、所要時間、推奨判断〉
最適解が表示された。
九条はそれを指でなぞるようにして消した。
「……時間、足りるか……?」
そう呟くと、九条は重症者のそばに移動した。
「今から動かします。痛みがあったら、声を出してください」
声をかけ、返事を待つ。
返事があることを、確かめてから次に進む。
「軽症の二人、こちらへ。自力歩行、いけますよね? 壁伝いで出口へ向かって下さい」
指示は的確だった。
九条は、まだ出口に向かわない。
重症者の腕を取り、体勢を整える。
瓦礫をどかす手が、一瞬止まる。
「……すみません、少し乱暴になります」
そう断ってから、力を入れて瓦礫をどかす。
瓦礫が床で砕けた。
時間は削られていく……
警告音が、区画内に響いた。
「九条、残り時間…… あと1分だぞ」
教員が声をかける。
「分かってます」
九条は顔を上げずに答えた。
声は落ち着いているが、判断は既に教科書から外れている。
全員が区画を出た直後、終了ブザーが鳴った。
成功でも失敗でもない、微妙な結果。
だが、誰一人として、残されてはいなかった。
重症者役の学生は、床に座り込んだまま、九条を見上げた。
「……助けに来てくれるとは思わなかったよ」
思わず出た本音。
九条は少し困ったように笑った。
「間に合って良かった」
九条は、ヘルメットを外す。
額に、うっすらと汗が滲んでいた。
「では、結果を発表する。救助数、判断速度、総合評価。すべて、神原が上だ」
教員は淡々と言った。
「神原の救助は、教科書通りの最適解だ」
三上は、腕を組んだまま言った。
「神原が正しいのは分かるけど、なんか後味悪いよな……」
三上の意見は、その場にいた学生全員の意見を、代弁したものだった。
神原は、その様子を黙って見ていた。
神原の最適解に、初めて疑問が生じた。
区画の外。
防災服を脱ぎ、簡易ベンチに腰を下ろした学生たちがざわめいている。
神原は、一人離れた場所で立っていた。
ヘルメットを抱えたまま、視線は宙を彷徨っている。
「……九条」
呼び止められて、九条は足を止めた。
ペットボトルの水を一口飲み、振り返る。
「何だ」
「さっきの判断だ」
神原は言葉を選ばなかった。
選べなかった、と言った方が近い。
「教科書的には、間違っている」
「ああ」
九条は否定しない。
その即答が、神原を少しだけ苛立たせた。
「時間がかかり過ぎだ。重症者を救うことで、全体の救助効率が下がった。あの場で最も合理的だったのは、二名を切り捨てる判断だ」
九条は黙って聞いている。
反論の構えも、弁解の様子もない。
「それでも、お前は助けた」
神原は、冷静さを取り戻して言った。
「助けた、というより…… 置いていかなかっただけだ」
九条はそう言って、ベンチに腰を下ろした。
神原も、少し遅れて向かいに立つ。
「理由を聞いてもいいか」
神原の声は、静かだった。
九条は少し考えてから、言った。
「理由がないと、ダメか?」
その返しに、神原は言葉を失う。
「……判断には根拠が必要だ」
「そうだな……」
九条は曖昧に頷いた。
「重症者が返事をしたからだ」
「返事?」
「声を出していた。意識もあった。その状況で、見捨てることは、俺にはできない」
神原は眉をひそめる。
「感情論だ」
「そうかもな」
九条は否定しない。
二人は、視線を逸らさない。
「感情が入るから、判断が歪む」
神原が言った。
九条は、少し間を空けてから言った。
「感情を切り捨てる判断も、歪んでいる」
神原の喉が、微かに鳴った。
言葉が続かない。
「お前のやり方は、間違っていない」
九条は穏やかに言った。
「多分、あれが一番多く助かる。学院が求めてる答えだ」
神原は、その言葉に胸が重くなる。
「じゃあ、なぜ?」
「俺が向いてないだけだ」
九条は肩をすくめた。
「俺には、できない」
神原は、九条を見つめた。
「……もし、あれが実戦だったら……」
神原が低く言う。
「お前の判断で、全体が崩れる可能性もあるぞ」
「そうだな」
九条は即答した。
「それでもか?」
「ああ」
九条の答えに、揺るぎはなかった。
沈黙が落ちる。
遠くで、教員が次の訓練準備を始める音がする。
神原は、ヘルメットを強く握った。
「……理解できない」
神原は正直に言った。
「理解できなくて、当然だ」
九条は微笑んだ。
九条が去った後、神原はその場を動かなかった。
手にしていたヘルメットを置こうとして、止まる。
無意識に握り直し、今度は逆の手に持ち替えた。
区画の奥では、次の訓練準備が始まっている。
教員の指示、装備の作動音、学生たちの声。
通常なら、気にならない雑音だった……
神原は一歩、踏み出しかけて止まる。
足先が、わずかに床を擦った。
視線が、先ほど九条が座っていたベンチに落ちる。
そこにはもう誰もいない。
神原は、あの区画を思い出す。
倒れていた重症者。
伸ばされていた手。
自分が向けなかった視線。
神原は、深く息を吸い、吐いた。
呼吸のリズムを整える。
いつも通りのはずだった。
それでも、胸の奥に残る感覚は消えない。
「……次だ」
誰に向けた言葉でもなく、そう呟いてから、ようやく歩き出す。
だが一度だけ、振り返った。
九条が去った方向を確認するように。
理由を探すように。
そして、何もないことを確かめてから、前を向いた。
歩き出した足取りは、先ほどよりも、わずかに遅かった。




