ストレートがすっぽ抜けちまって
つい先日、まるで仇敵みたいな会話を交わした繭墨と、僕は今、図書室のテーブルに向かい合って座っていた。中間試験のための勉強会である。
僕と繭墨だけではなく、直路と百代も誘っているのだけど、二人とも予定時刻を30分以上オーバーしても、未だにやってくる気配がない。
向かいの席から聞こえてくるのは、ページをめくる音と、シャープペンの筆記音だけ。
繭墨はかなり集中しているようだ。メガネがきらめいている。
人を見た目で判断してはいけないが、繭墨のような外見で劣等生というのは詐欺だろう。
彼女の勤勉さに乗せられて、こちらも真面目にやらなくてはという気持ちになる。
遅れている二人のことは脇に置いて、僕も自分の勉強を始めた。
放課後の静かな図書室。
ひたすら勉強に没頭している同席の相手。
そんな環境のおかげか、この日は時間の経過を忘れるくらい集中できた。
下校を促す校内放送が流れて、ようやく顔を上げる。
外は夕焼けのオレンジに染まっていた。
「二人は急用ができたので来られないそうです」
繭墨が窓の外を眺めながら言った。
遅いよ。
「情報は鮮度が命らしいよ」
「まだテスト週間の前ですし、他の用事を優先するのも仕方のないことですが……」
「百代さんって普段から勉強してるタイプ?」
「いいえ、進藤君と同じタイプですね」
「ギリギリになって一夜漬けのポイントを教えろとせがんでくるタイプってことか」
「はい。だからこそ早めに試験勉強を始めた方がいいと思い、この場を設けたのですが」
「ああいうタイプを勉強させるために必要なのは、理屈じゃなくて危機感だよ」
「同感です」
「でも、直路もまだ忙しいだろうし……」
二日前には秋の大会の第二回戦があって、伯鳴高校野球部はその試合にも勝利していた。
次に勝てばベスト8だ。
「わたしは、来なかった理由は他にもあると思います」
「また勿体ぶって」
「曜子が気を利かせたという線は考えられませんか? わたしと阿山君を二人きりにして、あとはどうぞごゆっくり、なんてニヤニヤ笑いを浮かべているに違いありません」
「ああ、そういうこと……」
この前にも話していた『僕と繭墨をくっつけようとしている』という陰謀論だ。そう言われてみると、百代はそういうことが好きそうだし、実行しそうなキャラではある。
「曜子が1人で盛り上がっているだけならまだいいのですが、次の段階に進んでしまっては厄介です。早めに手を打たなければ」
「次の段階って」
「進藤君がそのノリに加わることです」
「ああ……」
そうなると確かにつらい。
直路と百代が一緒になって「昨日はどうだった?」「最近よく話してるよな」「ヒメって美人でしょ」「とってもいい子なんだから」などと畳み掛けられるのは、あまり気分のいい状況じゃない。
「想い人に、他の女性との仲を世話されるのは、つらいですよね」
繭墨は眉をひそめて、悲壮感たっぷりに慰めの言葉をかけてくる。こいつがこんなに親身になってくれるなんて……、と感じ入ってしまい、あやうく首を縦に振るところだった。
「……あ、いや、そういう意味で同意したんじゃないから」
「強情ですね」
「だから違うって」
「ではこのままでもかまわないと?」
「そうは言ってない」
言ってないが――この状況を打破するのか、放置するのかという二択に、強引に引きずり込まれている気がする。主導権を握られているというか……。
「あ、このままじゃよくないっていうのは、想い人うんぬんの話を認めたわけじゃなくて、いちいち気を回される状況が面倒だっていう意味だから」
「そういうことにしておきましょうか、今のところは」
繭墨はいい笑顔でうなずいた。
「いや、常に、ずっとだよ」
「この状況から抜け出せるかどうかは、阿山君の積極性にかかっていますね」
「そこで他力? 繭墨さんの方からアプローチかけてみたら? どこかへデートに誘うとか」
「そんなはしたないことは出来ません」
繭墨は視線を落として頬を染めている。恥じらい乙女である。
冗談で言っているのかと思ったがどうやら本気らしい。
「しおらしいところを見せても、ダメなものはダメだから」
「そうですか。……まだ時間はあります。焦り過ぎないように行きましょう」
「同行者は他を当たってよ。ちなみにタイムリミットは?」
「クリスマスまでには決めたいところです」
「意外と俗っぽい期日設定ですね……」
◆◇◆◇◆◇◆◇
翌日の昼休み、チャイムとともに廊下へ飛び出した直路を捕まえると、1組の教室へ引っ張り込んだ。
「なんだよ、邪魔すんなよ、オレは昼飯を食いに行かなきゃならないんだ」
「あとで奢ってやるから、ちょっと話を聞かせてよ」
モノで釣ると直路はあっさりと従った。
僕の前の席から椅子を拝借して、向き合って座る。
「……話ってのは?」
「昨日、なんで勉強会に来なかったの?」
「前に試合で先発してたし、疲れてたんだよ。テスト期間に入ればちゃんと勉強するって」
「まあ、直路が赤点をいくつ取ろうが別にかまわないんだけどね」
「じゃあなんでオレ説教されてるみたいになってるんだ?」
「百代さんも来なかったから、二人そろって何か用事だったのかと思って。そういう場合はちゃんと連絡入れるのがマナーだよ。親しき仲にも礼儀ありって言うし、親しくないならなおさら、外面だけでも取り繕わないと」
「んん……? キョウ、お前なんか口が悪くなってないか?」
「そんなことはないよ」
口が悪いと言われても自分ではよくわからない。事実だとすれば、それは繭墨の影響だろうか。彼女の暴言をしこたま喰らったせいで、言葉をチョイスする感覚がマヒしてしまっているのかもしれない。恐ろしいことである。
「なあ、ヨーコも来てなかったんだよな」
「うん。二人は一緒だったんじゃないの?」
「いや、昨日はずっと部活だったし……、だからあいつだけは勉強会に行ってると思ってたんだけどな」
「歯切れが悪いね。何かあったの?」
「な何もねーよ」
直路は目を泳がせる。何かあったらしい。
「僕でよければ相談に乗るよ」
穏やかな口調でそう語りかける。直路は机に視線を落としたり、窓の外を見たり、目をつぶったり、天井を見上げたりとひとしきり迷ったあげく、ようやく切り出した。
「オレの友達……いや、部活の先輩が言ってたんだけどな」
「うん」そういうことにしておこう。
「男子と女子が付き合ったら、やることがあるだろ」
「何。麻雀?」
二人打ちはデカい役ばかり狙って雑な展開になるから、あまり好きじゃないんだけど。
「違う。セックスだ」
「全力投球のストレート来たね」
「やかましい。で、その……、ストレートがすっぽ抜けちまって、気まずくなって困ってるっつー話を聞いたんだよ」
「あらまあ」
……これはひょっとして、僕には荷が重い相談なのではないだろうか。
安請け合いするんじゃなかったと早くも後悔してしまう。
「おい黙るなよ」
「ああ、ごめん。すっぽ抜けというのは、どの程度の?」
「どの程度って」
「だから、ワンバンとか、後逸したとか……」
直路は眉をひそめて考え込むこと数秒、
「……デッドボール、だな」
「乱闘にはなってないの?」
「思いっきり睨みつけつつ一塁へ向かう……みたいな感じだな」
「報復とかは」
「いや、なかった」
「じゃあ、それほど悪い状況じゃあないと思うよ」
「そうかぁ?」
「攻めた結果で歩かせるのはまだマシ。敬遠四球とかの方が、きっと印象は悪い」
「そう、なのか……?」
悩みが晴れていない様子の直路に、僕は言葉を続ける。
「それに、こういうことは一発勝負じゃないから。何度も対戦した積み重ねで、通算成績ってのは決まるものだよ」
前向きな話を続けていくうちに、直路は徐々に顔を上げていく。
「大丈夫だよ」と僕は直路の肩に手を置いた。「苦手意識を挽回するチャンスはまだある。データを集め、分析し、対策を練って、冷静にそれを実行するんだ。いいね」
「あ、ああ……」
力ない仕草ではあったが、直路は確かに首を縦に振った。
もともと実力は持っているやつだ。冷静にさえなれれば、きっと大丈夫だろう。
あとは、昼飯をおごるという約束を、きれいに忘れてくれていればいいんだけど。
隣の女子が「なんの話してるのこの人たち」という顔でこちらを見ていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
直路が相手だったことと、野球の喩えだったこともあって、平然と語ることができたものの、比喩によって隠した内容というのは、はっきり言って生々いものだった。
友達のそういう話を聞いてしまうと、次に会ったときどんな顔をすればいいのかわからなくなる。変に気を使ってしまいそうで嫌だった。
――そんなことを考えていた矢先、今度は百代から連絡があった。
放課後、待ち合わせ場所は学校の近くの公園である。
校内ではできないような話をするつもりだろうか。さっそく性的な話を聞かされるのだろうか。男子からなら猥談で済むが、女子からだと、なんかこう、とても、困ります……。
落ち着かない気持ちをランニングで紛らわせていると、公園を3周したところで百代がやってきた。
「お待たせー」
「それほど待ってないよ。話って何?」
「ちょっとね、相談ごと。阿山君はコーヒーでいいよね」
そう言って缶ジュースの片方を差し出してくる。相談料のつもりだろうか。
缶コーヒーの甘ったるさが好きじゃないことは顔に出さず、僕は礼を言って受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ベンチに並んで座る。百代は足をぶらぶらと揺らしながら、ミルクティーをちびちびと口に含んでいる。そうやって間をつなぐこと数十秒。ようやく百代は口を開いた。
「……ね、阿山君。あたしって魅力ないのかな」
脈絡のなさに驚いて僕は百代の方を見た。
百代はうつむき気味で、視線は数メートル先の地面に落ちている。
「百代さんは朗らかだし、よく話すから、場の雰囲気を明るくしてくれる――」
「そうじゃなくってぇ……」
百代は僕の言葉をさえぎった。どうやら別の回答をご所望らしい。
彼女のいう魅力というのは、女性的な方面でのもの――主に容姿だろうか。そんなものを気にするのは、やはり直路との間に何かがあったせいだろう。
そこまでは察していたから、わざと答えをはぐらかしたというのに。
なぜかって?
それはもちろん、面倒くさいからだ。
『あたしってきれいだと思う? 美人だと思う?』
などと直接的な質問をしてこない以上は、言葉を濁してごまかすつもりだった。
僕は人の容姿をとやかく言うのが苦手なのだ。
人の価値は見た目ではない――なんて綺麗ごとを言うつもりはない。雄弁は銀どころか災いの元だ。外見の批評なんてその典型じゃないか。
しかし、逃げは通じないらしい。
百代はこちらの逃げ場を制限しつつも、決定的な言葉は僕に言わせようとしている。
人の容姿をとやかく言うのが苦手な理由がもう一つあって、こちらの方が理由としては大きいんだけど、単純に、女子に向かってきれいだとか、かわいいと言うことに照れてしまう。慣れてないのだ。
僕はあきらめて口を開いた。
「百代さんは、かわいいと思うよ。笑うと特に」
「ありがと。じゃあカラダは?」
百代は容赦なく追撃してくる。もう勘弁してほしい。僕の精神力は擦り切れる寸前だ。
横目で百代を見やる。彼女は正直言って、発育のよろしい身体をしているので、それがまた困りものなんですよ。わがままは身体だけにしてほしい。
「……自分に魅力がないと思うようなことがあったの?」
何も気づいていない鈍感男をよそおって尋ねると、百代は首をかしげて、
「二人きりになっても、そーゆーことをナオ君がしてこないから……、ほら、別にあたしも、そこまで積極的にしたいわけじゃないけど、でも、男子ってノリノリでしょ、超ノリ気で、常にそーゆーことを考えてるんでしょ?」
と開けっぴろげなことを言う。
前々から思っていたが、この子、距離感が近すぎる。計算なのか天然なのかわからない。直路の友達というだけで警戒心がなさ過ぎだ。あるいは僕を異性と認識していないのかもしれない。
その無防備さが男子を勘違いさせることに気づかないのだろうか。
いや、僕は別に勘違いしてはいないけれど、一般論としての話だ。本当だよ。
「同意を求められても困るけど、男子だって常時発情してるわけじゃないし、それだって相手によるし、……むしろ大切な相手だから勢い任せにはしたくないっていう、なけなしの理性が働いているのかもしれない」
「そーかなぁ」
「そう思っておいた方が、精神衛生にはいいよ」
「じゃあどうしたら理性をやっつけられると思う?」
百代は首をかしげる。
積極的じゃん。超ノリ気じゃん。
「争いは何も生まないよ。倒すのではなく、手を取り合うところから始めるんだよ」
「ボディタッチってこと? ちょっと緊張するけど、今度試してみる」
ああダメだこの子。
僕は心の中で天を仰ぐ。
逃げたい。この話題から早く逃げたい。
だが、多少強引に話を変えたとしても、百代が食いついてくれそうな話題はひとつしか思い浮かばない。しかも、その話題だって諸刃の剣だ。
「そういえば昨日、勉強会に来なかったけど……」
意を決して切り出すと、百代の表情が明るくなる。獲物を見つけた肉食動物の顔だった。
「あっ、それそれ、ヒメと二人きりだったんでしょ? ね、どうだった? 何かあった?」
「とてもよかったよ」
「えっ、ホントに!?」
「とてもよく集中できて、勉強がはかどったよ」
「えー、そーゆーんじゃなくてぇ」
百代は頬を膨らませ、つまらなそうに唇を尖らせる。しかしすぐに何か思いついたように、矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。
「そんなこと言ってぇ、勉強以外の話もしたんじゃないの?」
「お互い無口だから、消しゴム貸して、とかそれくらいかな」
「わからないところを教え合ったりした?」
「ひたすら黙々と勉強してたよ」
「もしかして……ヒメと仲わるいの?」
「……いいも悪いも、知り合ったばかりだよ」
僕は百代の質問を、ときに回避し、ときに迎撃し、ときに直撃を受けながらも、ひたすら逃走を続けたるのだった。
……これは単なる後悔なのだけれど。
このとき、僕は逃げない方がよかった。
きちんと話をして、百代の不安を解消できていれば、後々、あんな面倒なことには、ならなかったかもしれないのだから。




