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Room No.403  作者: 水月康介
2年次1学期
42/80

だから積極的にいかないとね


 繭墨は僕のジャージを着用したまま帰っていった。

 部活帰りということにすれば、おかしくはないですから。そう言っていたがどうでもよかった。



 繭墨の指摘は、僕の心に深い傷を残した、と思う。


 千都世さんから距離を取ったのは、姉と弟という関係性のせいじゃない。

 もっと単純で平凡な理由。

 僕では千都世さんと釣り合わないことに気付いたから。


 思えば千都世さんは、実家にいたころから僕に対してそれなりに好意的で、ときに姉弟間のそれを超えていると感じることもあった。


 だからこそ、怖くなったのかもしれない。

 自分は千都世さんの好意に釣り合わないのではないかという不安。

 そして、不釣り合いさに気付いた千都世さんに、失望されてしまうのではないかという恐怖。


 僕は自分でも気づいていなかった――あるいは忘れていた――千都世さんへの引け目、劣等感を、今になってはっきりと意識していた。


 思い出したことはもう一つある。

 交際相手との釣り合いを気にしていたやつが、身近にいることだ。


 その名は百代曜子。

 直路と付き合っていたときの百代はいつも、自分が直路と釣り合っていないのではないかと不安がっていた。その悩みは最終的に別れの原因になり、別れた後も引きずっていた。


 そんな百代を見かねたどこかの誰かが、格好をつけて慰めの言葉をかけたりもしたのだが、しかし、その実、慰めの言葉を吐いた当人こそが、実家から逃げ出すほどに相手との釣り合いを気にしていたなんて。


 こんな人間の言葉には何の価値もない。なんの説得力も持たない。

 こんな人間自体にも価値はない。僕はダメ人間だ。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「なんかダルそうな顔してる。どしたの?」


 内省に沈んでいると、百代が声をかけてきた。

 いつの間にか放課後になっていたらしい。教室内に残っている生徒は半分くらいにまで減っていた。


「僕もたまには落ち込むことくらいあるよ」

「ヒメとケンカでもした?」


 何の前触れもない問いかけは、当たらずとも遠からず。

 適当な返事で躱すことも、平坦な表情を保つこともできなかった。


「あ、図星の顔だ」

「……なんでそう思ったの?」

「ヒメがいつもよりピリピリしてたから」

「それだけ? っていうか繭墨って常時ピリピリしてる気がするけど」

「あたしくらいになると、ヒメのちょっとした変化も見分けられちゃうの」

「へえ」


 百代は自慢げに口元を上げる。


「ちなみにね、いつものヒメは鞘に入った日本刀って感じだけど、今日は鞘から出した日本刀って感じだったよ」

「じゃあピリピリじゃなくてギラギラじゃないの」

「ギラギラでイライラだったかなぁ」

「それもう刃傷にんじょう沙汰だよね」

「カッとなってやりました。後悔はしていません」


 百代が繭墨の口調を真似て言う。

 昨日の繭墨の言葉は僕にとって鋭すぎた。言葉のナイフ、などというのは陳腐な比喩かもしれないが、刃物に例えるしかないくらい、鋭利に僕のプライドを抉ったのだ。


「それで、どうしてケンカしたの?」

「……いやいや、そんなんじゃないから。僕が勝手にダメージを受けてるだけで、お互いが険悪になってるわけじゃない」

「ホントに?」

「本当だよ。その証拠に、これから僕は生徒会室へ行くつもりだったし」

「ああ、クラスごとの意見書のことで?」

「うん。提出状況とか、内容とかも見てみたいし」

「あたしも行っていい?」

「さあ……、一応、僕はクラス委員長っていう建前があるから普通に入ってるけど。まあダメって言われたら帰るだけだけだし、いいんじゃない?」



◆◇◆◇◆◇◆◇



「失礼します」

「はい、阿山君、今日はどうしましたか?」

「ちょっと例の意見書はどうなってるかなと」

「2年4組から提出がありました。ご覧になりますか?」

「ああ、それじゃあ。……やっぱり、重なってる意見があるね」

「すべての組が出そろったところで、重複した意見を集約し、どのクラスが発言権を得るか、話し合いかあるいは抽選で決めようと考えています。外れた組に不公平感が出ないよう、なるべく均等に割り振りたいとは思っていますが」

「そうか。何か厄介そうな提案とかは来てない?」

「実現不可能あるいは悪ふざけに類する要望は、ある程度の量が蓄積されたらプリントにまとめて各教室に配布、〝悪い見本〟として晒すことで、排除が可能です。本気の要望ならばなんらかのリアクションがあるでしょうし、軽い気持ちでのおふざけ(・・・・)なら自然消滅します。圧倒的に後者が多いでしょうが」

「なるほど……」

「ほかに何か?」

「いや」

「わざわざ様子を見に来ていただいて、ありがとうございます。ですが今後は放課後の貴重な時間を潰してまで来てもらわなくても結構ですよ、無関係の方に手間を取らせるのは心苦しいですから」

「あ、うん、そうだね、それじゃあ」

「はい、さようなら」



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「やっぱりケンカしてるじゃん……」


 生徒会室から出た百代の第一声がそれだった。

 僕たちは並んで廊下を歩きながら、先ほどの繭墨の様子を振り返っていた。


「ヒメどしたの? 超そっけなかったよ?」

「僕も一瞬クラスメイトだってことを忘れそうになった」

「ツンデレってレベルじゃないよ……」

「ツンもデレもない、というか感情の振れがない、ただの事務員だったね」

「どうしたのホントに。冷戦中って感じだったけど」

「冷戦というのはどの国が対立していたのか知ってる?」


 僕は露骨に話題を変える。

 百代はそれで察してくれたのか、ちょっと目を丸くしたが、話についてきてくれた。


「アメリカとロシアでしょ」

「正確には、ロシアじゃなくてソ連、ソビエト連邦だね」


 第二次大戦が終わっても、西と東、大国同士の緊張は高まるばかりだった。直接の衝突はなかったけど、朝鮮・ベトナムその他いくつもの代理戦争、宇宙開発競争、そして核開発競争。キューバ危機なんていうギリギリの状況もあった。

 その緊張は、片方の国家の崩壊によって終わったかに見えた。

 だけど世界中には2極化による対立が無数の火種を残していたのだ。


 超大国は、次なる敵を求めた。

 独裁国家というレッテルを張り、市民を解放するという名目でおせっかいに励む毎日。そういう強硬なやり方は、結局、強い反発心を生むだけだった。

 数々の事件を、あの国は危険な一部組織の犯行と断じたけれど、異なる社会観・宗教観を持つ国家を自分たちの色に塗り替えようとした傲慢さへの、総意としての反発だったんじゃないかな。


「――それって何かのたとえ?」

「いや、単なる現代史の話」


 そう言ってはぐらかす。


「そろそろ期末テストが近いよねぇ。勉強は?」

「いつもしてるよ。1日1時間まで」

「わあ優等生」

「百代だって、成績上がってきてるじゃないか」

「そりゃあもう、頑張ってますから」

「いいことだと思うよ」

「私の周りって勉強できる人が多いから」


 と、百代は苦笑しつつ動機を口にする。


「そう……、まあ動機なんて結果に比べたら大して重要じゃないよ」

「そんなことないよぉ、動機って、最初の一歩を踏み出すための原動力じゃない。だから、強い動機がないと結果までたどり着けないと思うなぁ。あたしはまだ道の途中だけど」


 思いもよらない百代の主張に、僕はふと足を止める。

 一理あると思った。


「そう、だね。そうかもしれない」

「あたしの動機はやっぱりね、あたしのまわりの勉強できる人たちに、ちょっとでも近づきたい、釣り合うようになりたいっていう、ちょっとピュアじゃない感じなんだけど」


 釣り合うようになりたい。

 その意識が高じて、百代はやりすぎてしまい、直路と別れることになったわけだが、それを気にすることはないのだろうか。


「……ねえ、ちょっと変なことを聞くけど」

「はいなんでしょう」


 百代はあざと(・・・)可愛い仕草で首をかしげる。


「付き合ってる相手と自分とが釣り合ってないって思うとき、百代ならどうする?」


 百代の表情が、はっきりと曇った。


「ホントに変なこと聞いてくるとは思わなかった。っていうか、失礼なこと」

「……ごめん。忘れて」

「ううん、答えたげる。その代わり、何か要求するかも」

「わかったよ」


 僕はうなずいた。これは対価を決めて交渉成立、というより、不躾な質問をしてしまったことへの謝罪の気持ちもある。

 百代の言うとおり失礼極まりない質問だった。

 昨日、繭墨から食らった舌鋒の十字砲火のせいで、そういった感覚がマヒしているのだろうか。


 いや、他人のせいにするのはよくないな。

 僕が迂闊だっただけだ。


「そうねぇ……」


 と、百代は視線をさまよわせる。言葉を探すように、過去を思い返すように。


「あたしは、だいたいはキョウ君も知ってると思うけど、進藤君と付き合ってたときは、思春期の男子をつなぎとめるにはカラダを使うしかないって思って、変な方向に積極的になってたから」


 そこまでは知っている。

 僕が気になっているのは、百代が別れてしまったあと、その間違った積極性を悔いて、どうすればよかったと思っているのか。

 要するに――、百代の後悔と反省と、次への展望を知りたかった。


「今思えば、やっぱり空回りしてたんだよねぇ」


 百代が弱々しく笑う。


「お付き合いって一人でするわけじゃないのに、進藤君とちゃんと話をしてなかったし、あたしが自分に自信が持てないとか、どこが好きかとか、彼女でいていいの? とか、重いと思われるから怖くて聞けなかったけど……、でも、そういうことをちゃんと話さないと、手をつないでても、ちょっとずつ歩調がずれていくんじゃないかな」


 百代は再び歩き始め、僕はその後についていく。


 ――手をつないでいても、少しずつ歩調がずれていく。

 それは、恋人同士になることが二人の関係を保証するわけではないと、そう語っているように聞こえた。


「必死で手を伸ばして、離さないように、って指先だけでつながってる状況は、ドラマのピンチのシーンみたいでそれなりにグッとくるけど、そんなギリギリの演出、あたしはいらないかなぁ。歩くの早いからちょっと待ってって、こまめに声をかけるだけでいいと思うの」


 ドラマティックな恋愛を、意外にも百代は敬遠しているらしい。

 恋愛は日常の延長――それが百代の恋愛観なのではないかと、なんとなく思う。


「確かに、ピンチのあとにチャンスあり、なんて律義なものじゃないからね。それ以前にチャンスは気が付いたら手が届かない場所へ遠ざかってるし、ピンチはもう手の打ちようがない距離に来てやっと自覚したりするし」

「そうそう。だから積極的にいかないとね。――で、あたしからのお願いなんだけど」


 百代は、歩きながら肩ごしに振り返り、イタズラっぽく笑った。



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