わたしの制服に触らないでください
バイト先のスーパーマーケット『ラッキーマート』は、駐車場が狭いので、徒歩または自転車でご来店されるお客様が多い。そのため、雨の日は必然的に来客数も少なくなる。
基本業務は退勤時刻前に終わってしまったので、店内の清掃作業やらバックヤードの備品整理などを行って時間を潰し、タイムカードを通して裏口から外に出た。
「まだ雨は降っているようだね」
副店長の長谷川さんが戸口から顔を出す。
「梅雨の雨って感じですね。強くも弱くもないけど、ずっと降り続くような」
「週に1回くらいこういう日があると、私も残業が減っていいんだけれど、毎日となるとそれはそれでまた憂鬱になるね」
長谷川さんは苦笑いを浮かべつつ曇天の空を見上げ、
「君は家が近いけれど、帰り道は気を付けてね。路面が濡れて滑りやすいし、自動車の側も運転をミスしやすいから」
「はい、気を付けます。おつかれさまでした」
「うん、おつかれ――」
長谷川さんの言葉が不自然に途切れる。
どうしたのかと振り返り、そして長谷川さんの視線を辿ると、
「え? ……繭墨?」
道端の電柱の陰に繭墨が立っていた。
真っ黒な色の傘をさして雨の中に立ちすくんでいる様子は、薄暗いこともあって割と恐怖を誘う。
なんのつもりかはわからないが、僕を待っていたことは確かだろう。
「何やってるのさ、連絡をくれれば――」
近づいて繭墨の様子を見るにつけ、僕は絶句してしまう。
繭墨が濡れ鼠になっていたからだ。
長い黒髪からは水が滴り、メガネのレンズにも水滴が付着している。制服は水にぬれて、スカートは水を吸っているせいかいつもの黒よりも黒く重く見える。
「どうしたのそれ」
「トラックにはねられました。雨水を」
「あ、ああ……」怖いよその倒置法。
「もしかして、それで待ってたの? タオルならあるし、シャワーとかも」
「いいえ、阿山君にお話があります。この有様はわたしの不注意の結果であって、ここへ来た理由ではありません」
と繭墨は首を振る。
鉱物の堅さを測るモース硬度ならぬ、繭墨の精神的頑なさを測るマユズミ硬度によると、この状態は10段階中ですでに6を超えている。これはあくまでも現時点での指数である。マユズミ硬度はなんの対策も打たない場合、時間の経過とともに上昇する傾向がある。
「いや、そうは言っても、まず乾かさないと。結果とかどうでもいいから。ウチすぐ近くだし、せめて身体を拭かないと。なんなら洗濯機も貸すよ。変なことはしないから」
言ってから、これは余計な一言だったな、と思う。
案の定、繭墨の視線が鋭さを増す。マユズミ硬度7へ上昇。
「お世話になるつもりはありません。すぐに済む話です」
「でも、繭墨の家って結構遠いよね。そんな濡れ鼠の状態で公共交通機関に乗せるのは、さすがに忍びないよ」
「忍んでください。構わないでください。ほんの数分で終わりますから――」
強気ながらも、どこか切羽詰まった様子。こんな繭墨は珍しい。ときどき、早口でまくし立ててくることはあるが、それは彼女が焦っているのではなく、こちらを慌てさせてコトを有利に運ぼうとしているか、あるいはこちらの慌てるさまを見て楽しんでいるかのどちらかだ。
しかし、今日のこれは違う。繭墨には余裕がない。下着まで水が染みてきてつらいとか、そういう理由だろうか。違うだろうな。
「断る」
と僕は言った。繭墨はぽかんと口を開ける。おお、こういう反応が返ってくるなら、強硬な言葉を使うのも楽しいものだな、と実感。
「まずはその格好をどうにかするのが先決だから。じゃないと話は聞かない」
「な……」
「そっちは大したことないって思ってるみたいだけど、その格好は、はっきり言って、だいぶヤバいよ」
「で、ですが……」
まだためらっている繭墨の手首をつかんで、強引に引っ張っていく。
後方で「マタチガウオンナノコヲ」という長谷川さんの声がしたが、聞こえないふりをした。
◆◇◆◇◆◇◆◇
最初の100メートルほどはまだ抵抗の言葉があったが、すぐにそれも止むと、繭墨は今日の本題と思しき僕への質問を口にし始めたので、僕はイヤフォンを耳に突っ込んで音楽を聴いているふりをした。するとようやく繭墨は黙ってくれたが、今度は傘をさしているのに襟首から水が入ってきた。何事かと振り返ると、繭墨が自分の傘を傾けて雨水を流し込んでいた。ワイシャツの第一ボタンを閉めると水の侵入は防げたものの、所詮こちらの装甲はワイシャツとその下のTシャツのみ。肩口から容赦なく雨水を浴びて染みの範囲が広がっていく。まるっきり子供のいたずらだった。
「悪戯って、漢字で書くと途端に性的な感じになるよね」
つかんだ腕に抵抗があり、振り返ると繭墨が立ち止まっていた。
どうしたのかと思っていると、繭墨は片手で器用に傘をたたんだ。もう差していても無意味だという開き直りだろうか。あるいは雨に打たれたい気分なのだろうか。
ふと目が合う。
傘をたたむと、その表面に張り付いていた雨水が一気に集まる。それを繭墨は、あろうことか僕の足元――というか靴を狙って流し込んだ。
立ち止まっていたため、回避する間もなく直撃を受ける。ちょうど靴の口のあたりだったので、僕は靴下に染みわたっていく雨水の気持ち悪さを、存分に味わう羽目になった。
こういう、子供じみたやり取りであっても、無言よりは良かったと思う。
無言は気まずい。
今は特に、繭墨がよろしくないのだ。僕はずっと意図的に目をそらし続けている。
何がよろしくないかというと、その濡れ鼠っぷりが、だ。
長い黒髪は湯上りのようにしっとりと濡れている。
濡れた夏服が身体に張り付き、白い肌や下着の肩ひもが透けて見える。
ときおり、重力に耐えきれずに肌を流れ落ちていく水滴の行方を、目で追ってしまう。
部分的なものだけではない。
全身が水に濡れた姿は、弱々しさを感じ、哀れを誘う。繭墨乙姫のことを可哀想と感じるのは非常にレアで、この感情をどう扱えばいいのかわからず混乱していた。
こんな風に意識してしまうのは、数日前に赤木から『濡れ透け』なるフェティシズムについて滾々と話をされたせいだろう。
そのときは知ったこっちゃないと思っていたが、いざ現物を目の前にすると、はっきり言って、だいぶヤバい。繭墨への忠告は言葉足らずだったかもしれないが、それはあまり詳細にこのヤバさを説明すると、繭墨の視線がどんどん鋭く冷たくなっていくことが目に見えていたからだ。マユズミ硬度は9に迫っていただろう。
◆◇◆◇◆◇◆◇
繭墨を玄関で待たせてバスタオルを持ってくる。
差し出したバスタオルを、繭墨は素直に受け取ってくれた。
髪や肌を拭いている姿をじろじろ見るのはよろしくないと思い、先に中に入っておく。手持無沙汰は室内の片づけをして紛らわせた。
その途中、ふと気づいて尋ねてみる。
「……あのさ、もしかして、誰か家の人が迎えに来ることになってたりした?」
反応がなかったので振り返ると、繭墨は、しまった、という顔をしていた。
僕の施しを受けるのを嫌がっていた割に、こんな簡単な断りの手を思いつかなかったなんて、本当に、精神的に余裕がないらしい。
そもそも、車の水はねは注意していれば回避できるものだ。深い水たまりをタイヤが踏みそうなら、歩くペースを落とせばいい。後ろからの車だって音でわかる。
注意力も散漫になっていたのなら、濡れ鼠になる前から――つまり学校を出るときからすでに余裕がなかったということだ。生徒会室で顔を見たときには、そんな様子はなかったはずだけど。
「……阿山君」
「何?」
「あの、すいません……、やっぱり、シャワーを、貸してください」
このセリフ。
仮に女性から言われることがあったとしたら、そのときは、もうちょっとこう、うつむき加減で恥じらいながら、上目遣いに、頬を染めて、照れくさそうに、視線を泳がせながら震える声で告げられるものだと思っていたのに。
繭墨は違っていた。
まっすぐにこちらを睨みながら、淡々と命令するように言うのだ。顔色なんていつも以上に青白くて――あ、これは単に濡れたせいで肌寒いのか。ともかく、屈辱に耐えつつ、恥を忍んで頭を下げている感が強すぎる。緊張感はあるものの、色気なんてみじんもなかった。
「いいよ、こっちは最初からそのつもりだったし。蛇口とか、どこにでもあるシンプルな作りだと思うけど、お湯が出るのがちょっと遅いからそれだけ気を付けて」
「はい」
「ちなみに着替えなんて持ってないよね」
「はい」
「家の人を呼ぶ?」
「それは……、今日は、両親は遅いので」
繭墨はためらいがちにそう言った。本当かどうかはわからない。もしかしたら、ここに両親を呼べば間違いなく誤解される、という防衛本能が働いたのかもしれない。
「そっか」
だが、繭墨の着衣は〝湿っている〟というレベルをはるかに超えている。スカートの端からぽたぽたと水が滴っているし、脱水直後の洗濯物の方がまだ着られるだろう。放っておいてすぐ乾くものではない。そして、我が家の洗濯機に乾燥機能はついていない。
「なんとかアイロンだけでも試してみようか」
「わたしの制服に触らないでください」
「あっはい」
本日のマユズミ硬度10が確定した瞬間だった。




