プロローグ
名門医一族の御曹司で、海外帰りのエリート。
若くしてすでに名医と名高く、病院長とも懇意で、けれど医療のこと以外はことごとく無関心。
分厚く野暮ったい丸眼鏡と、眼鏡ごと隠れるほど伸びた前髪がトレードマークの、院内では名医というよりは無愛想と偏屈の〝医療オタク〟として有名な脳外科医。
それが私の夫だ。ただし、仮初の。
そして、彼の素顔を知っているのは〝契約妻〟の私だけ。
髪を上げ、眼鏡を外したその内側には、彼自身が意図的に隠し続けてきた美貌がひそんでいる。
「座って」
言われるままソファに腰を下ろし、私は、ギプスの左足を彼の前に差し出した。
全治ひと月、事故に遭って骨にヒビが入っている足だ。
そこへ彼の指が触れる。座る私の向かいにひざまずいた彼の、節の目立つ長い指が、ゆっくりとギプスの包帯を外しにかかる。
所作のひとつひとつが恭しく見えるのは、私がそういうふうに思いたいからだ。
そうだときちんと自分に言い聞かせていないと、簡単に勘違いしそうになる。
自宅では、彼はトレードマークの分厚い眼鏡を外す。わざわざ髪で顔を隠すこともない。今もそうだ。
見惚れてはいけない。綺麗に整った自分自身の顔貌に、彼はデメリットしか感じていないのだから。
「せんせ、……私、自分でしないと、いつまでも覚えられな……」
「治るまで僕がやるから構わない。おとなしくしてて」
たしなめるように言葉を遮られ、結局はなにも言えなくなる。
長い指から目を離せない。てきぱきと器用に、それでいて慎重に包帯をほどかれて固定を外される。
裸に脱がされていくみたいだ。
あり得ない想像が頭を巡り、くらりとした。
顔に出しては駄目、と思えば思うほど頬に熱が集まる。
私は、自分で思っているよりも遥かに感情が顔に出るタイプらしい。そして、彼はそれを読み取るのが大の得意。だから今も、この人にはきっと全部お見通しだ。
手を取られて移動した先は脱衣所だ。
自分ひとりが残ったそこで、私はメイクを落としてから服を脱ぐ。そして、裸の肌の上に、大判のバスタオルをしっかりと巻きつける。
昨日もおとといも同じことをした。
無理だ。これに慣れる日なんて、絶対にこない。
「先生。支度、できました」
扉越しに待ってくれていた彼を呼び、手を取られて浴室へ進み、椅子に腰を下ろした。
浴室の中、私の真向かいに膝をついた彼が、コックをひねって桶にお湯を貯めて、ボディソープを手に取って、泡を立てて……こくりと喉が鳴る。
服を着たままの彼に、今日も、私はこれから直に足を洗われる。
ひとりでできるから、とどんなに訴えても聞き入れてもらえない。丁寧にボディソープの泡を起こしていた長い指が、やがて私の、裸の左足に触れた。
「ん」
きめ細やかな泡が足首を包む。びく、と背が跳ねる。
足に触れる彼の指は、ギプスを外すとき以上に慎重で、余計にぞくぞくする。足指の間に指を差し込まれた瞬間には、露骨に身体が震えてしまった。
「あっ、ぅ」
……なんて声を出しているんだ、私は。
羞恥に顔が歪む。どくどくと忙しなく動く心臓のせいで、息苦しくて堪らなくなる。
「痛い?」
窺うように尋ねられ、唇を噛んだ。
からかっているのか真剣に訊いているのか、判断がつかない。
「痛く、は、ない、です」
なんとか絞り出した自分の声は、我ながらひどく上擦っていた。
泡に包まれた左足を、私は、とうとう顔ごと逸らして視界から弾き出した。これ以上は耐えられなかった。
「せんせっ、もう私、ひ、ひとりで、できますから……っ」
「そうですか?」
吐息交じりの笑い声が耳を掠めた。
お湯で両手をすすぐ彼の指を、私はまたぼうっと凝視する。そうしながら、ぎゅ、とタオルの合わせ目をきつく握り直した。
「心春」
名を呼ばれ、肩が跳ねる。
ふと視線を上げた先で、私をまっすぐに見つめる彼と目が合った。
「ちゃんと頼ってくださいね。夫婦、なんですから」
顔を寄せられて耳打ちされたせいで、頬がひときわ熱くなる。
ギィ、と折れ戸の扉を開き、彼が浴室を去っていく。バタン、と再び扉が閉じる音を聞きながら、震える吐息が漏れた。
――怪我をして以来、私たちの距離は、異常なほど近くなった。
彼の素顔を知っているのは私だけのはずだった。職場での彼は、眼鏡と前髪で、意図的に顔を隠していたから。
けれど先日、ある一件を経て、彼の素顔は瞬く間に病院中に広まった。
条件が合致しただけの契約婚を経た私たちが、実は相思相愛の夫婦だった、という鮮烈な誤解とともに。
怪我をした私をあんなふうに人前で心配したりするから、だから顔を見られてしまったのに、隠していたはずの本人が一番どうでも良さそうな顔をしている。
どうしたらいいのか、私にはもうさっぱり分からない。
「ふ……」
困る。呼吸が元に戻らない。
私だけがひとりでこんなにドキドキしている。どうかしている。ただの契約妻なのに。愛されているわけでもなんでもないのに。
愛されていない――頭を巡ったその考えのせいで、心がなおさらダメージを負った。
怪我をした足よりも、高鳴る胸のほうがずっと痛い。
ひとり残った浴室で、バスタオルを外して裸になる。
そのまま、浴室の鏡へぼんやりと視線を向けた。濡れて曇った鏡には、それでもはっきりそうと分かるくらい真っ赤な自分の顔が映っている。
……こんな顔で内心を悟られないなんて、絶対に無理だ。
愛の通わない、お互いの条件が合致した結果の契約婚。
その相手に、今、私は完全に溺れている。もうごまかせないほど熱く恋をしている。
早く身体と髪を洗って戻らなければならない。
けれど、一体どんな顔であの人の傍に戻ればいいんだろう。
そわ、とまだ彼の指の感触が残っている左足が甘く震え、私はきつく唇を噛み締めた。
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