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静けさを聞く骨董店  作者: 秋乃 よなが


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第六話 ブローチ ―胸に残る熱―


 昼過ぎから、雲が低く垂れ込めていた。

 窓の外では、雨とも霧ともつかない細い水の粒が、空気の中を漂っている。

 音を立てるほどの雨ではない。けれど、どこまでも湿っていて、店の木の床が少しだけ軋んだ。


 ここ数日、よく降っていた。

 帳簿の紙は少し波打ち、棚の奥の器にはうっすらと曇りがついている。

 風を入れようと格子窓を開けると、土の匂いがふっと流れ込んできた。

 それと一緒に、棚の奥から何かが転がり出るような音がした。


 覗き込むと、小さな木箱が一つあった。

 古い布に包まれていて、指先で触れると、少し温もりが残っていた。

 布を開くと、中に金のブローチがあった。


 花の形をしていて、中央に小さな青い石がはめ込まれている。

 金属の色はくすみ、ところどころ黒ずんでいる。

 けれど光にかざすと、青石の奥で、ほんのわずかに明るい筋が動いた。


 箱の底には、薄れて読めない文字があった。

 どうにか判別できたのは、短い二文字だけ。


 ――『娘へ』。


 私は箱を閉じずに、しばらくそのまま見つめていた。

 指先に、布の柔らかさと金属の冷たさが交互に残る。

 窓の外では、雨の粒が少し大きくなってきた。


 雲が低く流れる。光のない午後。

 けれど、どこか胸の奥だけが、静かに明るい気がした。


 夜。再び雨の音が戻ってきた。

 軒先を叩く水が、一定の間を保ちながら落ちている。

 店の灯りを一つだけ残し、私は机に向かった。


 帳簿を開き、ゆっくりと筆を取る。


 ――七月一日 ブローチ。


 ブローチを布の上に置くと、淡い光を受けて、花弁の輪郭が浮かび上がった。

 手のひらに乗せると、金属なのに、不思議と冷たくはなかった。

 まるで誰かの手の温もりを、まだ覚えているようだった。


 ろうそくの火を灯す。

 炎の光がブローチの石に映り、奥の方で淡く揺れる。

 その揺らぎが、まるで水の底で息をしているように見えた。


 耳を澄ます。

 いつもより静けさが深い。

 雨の音すら、遠くに退いている。


 やがて、微かな声が滲み出た。


《あなたは、だれに渡すの?》


 女性の声だった。

 年は分からない。けれど若くも老いてもいない声、澄んだ水面に触れるような響きだった。


 私は筆を取り、帳簿の余白に記した。


 ――声、あり。女性。穏やか。温度を含む。


《私はね、このブローチを娘に渡そうとしたの。

 けれど、あの子は海の向こうへ嫁いで、それきり帰ってこなかった。

 胸に残ったのは、この小さな花だけ》


 声は、火の明滅に合わせて揺れる。

 ときどき少し遠くなり、また近づいてくる。


《贈るって、不思議ね。

 渡したはずなのに、自分の中に残るの。

 その人の笑い声や、手の温かさや、見送りのときの呼吸まで。

 それらが、金の縁に少しずつ閉じ込められていくの》


 私は黙って聞いていた。

 手のひらの上のブローチが、かすかに温かい。

 まるで語るたびに、記憶の熱を取り戻しているかのようだった。


《あの子が出て行った朝、雨が降っていたの。

 髪を結うとき、私はこのブローチを胸につけた。

 港までの道で、風が吹くたび、少しだけ胸が痛んだ。

 それでも笑ったのよ。あの子が泣かないように》


 炎が揺れた。雨の音が窓を叩く。

 その拍子が、言葉の切れ間と重なった。


《その日の夜、私は気づいたの。

 ブローチが、少し熱を持っていることに。

 あの子の体温が残っているようで、どうしても外せなかった。

 それから何度も磨いたけれど、あのときの光は戻らなかった》


 私は筆を止め、目を閉じた。

 誰かを送り出すというのは、少しずつ自分を減らしていくことなのかもしれない。

 聞くこともまた、それに似ている――と、ふと思った。


 声が再び、静かに戻ってきた。


《あなたは、だれに渡すの?》


 その問いは、先ほどと同じ言葉だった。

 けれど今度は、まるで私の胸の奥を覗き込むような響きをしていた。


 私は答えられなかった。

 言葉にしてしまえば、この静けさが壊れてしまう気がした。


《……そう。答えなくていいの。

 あなたの中に熱が残るなら、それでいいの。

 その熱は、誰かの言葉を受け取った証だから》


 声はそこで、そっと遠ざかった。

 炎の揺らぎが穏やかになり、青石の奥の光が静まる。

 部屋の温度が少しだけ下がった気がした。


 私は帳簿を開き、筆を取った。


 ――今夜の声、やさし。熱、胸に残る。


 紙に筆が触れたとき、手のひらの熱がまだ消えていないことに気づく。

 ブローチは、すでに冷たくなっていた。

 けれどその冷たさの中に、どこか柔らかい脈のようなものが残っていた。


 雨音が少し遠のいた。

 窓の外では、風が木々の葉を揺らしている。

 風鈴の音が一つ鳴った。

 湿った空気の中を、透明な音がゆっくり渡っていく。


 私はブローチを箱に戻し、そっと布をかけた。

 箱を棚の上に置くと、他の品々がわずかに光を返した。

 急須、懐中時計、手鏡、ランプ、手紙、そしてブローチ。

 六つの静けさが、並んで息をしているように見えた。


 帳簿を閉じ、筆を置く。

 夜の空気が、胸の奥をゆるやかに冷やしていく。


◇◇◇


 朝。雨は止みきらず、霧のように降っていた。

 障子の向こうが白く滲み、庭の石が濡れて光っている。


 私は店の戸を少し開け、湿った風を入れる。

 外の匂いは、まだ夏ではなかった。

 梅雨の終わりを待つように、重く、静かだった。


 棚の上のブローチを手に取る。

 金属はもう冷たく、けれど重さだけが確かに残っている。

 胸のあたりが、まだ少し温かかった。


 帳簿を開き、余白に書く。


 ――静けさは、渡された熱のあとに生まれる。


 その一行を書き終えると、筆の先から一滴の墨が落ちた。

 墨は紙の上でゆっくりと広がり、花の形に滲んだ。


 それは、まるで小さなブローチのようだった。


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